ミー子

ぉぁああおうぅぅ

#自分自身を創り上げた洋楽のバンド10選

ツイッターハッシュタグ #自分自身を創り上げた洋楽のバンド10選 に乗っかって。

1. Pink Floyd

"The Dark Side Of The Moon" が私のプログレ入門だった。「こんな好き勝手やっていいんだ!」というショック。この「好き勝手」ということが、そのまま私にとっての「プログレ」の定義と言い切ってよい。

とんがったままごちゃついて、多様な可能性に開かれて、聴き手の耳を自由にし活性にする。この「ありよう」が、作品としての「完成度」に優先する。

(いやもちろん "The Dark Side Of The Moon" は完成度も怖ろしく高いですが。)

完成度を測ることはものさしを前提とする。プログレは逆にものさしを疑うことだ。

続いて 2. Yes3. King Crimson の順でいちばん好きなバンドになっていったけど、結局

4. Genesis

が「ルイス・キャロル読者の私の〈テンペラメント〉にぴったり来た」。

5. PFM

音楽の原初的感動になるべく即した状態であろうとすると、「音響」の形を取るだろう。そこには表現の真実があるだろう。Pink Floyd に私が惹かれたのは、音響の斬新さ美しさのせいだ。

いっぽう、カデンツに則って組み立て進行させる「曲」らしい曲は「作為」であって、音響の真実と違って、「嘘」というか、嘘であることについて正直であるというか。だからこそ音楽たり得てるというか。

ただ、私のプログレ入門後しばらくは、後者により馴染みを感じ、その極点を PFM に見、「音響」は「音楽」の範疇ではない、「作曲」の手続きを踏んでない、と感じる時期が続いた。小6の料簡です。

6. Gentle Giant

既成事実としてのクラシックを「取り入れる」、取り入れることによる「効果」を狙う、というだけでもロックにおいてはクリエイティヴと見做されがちだし、プログレと目されるバンドの多くにおいてもクラシックはそのように扱われてるかも知れない。

Gentle Giant にとってのクラシック、というか古楽や現代音楽は、それによる効果を欲してるのではなくそれ自体が探求、と見える。そしてまさに、わたし的プログレのあっちとこっとの境目はここにある。

7. Brian Eno

私の Eno は "Another Green World" から。「夢見がち」な少女を「覚醒」させた1枚。音楽は音楽自律の「方法」に徹せねばならない。音楽作品が「幻想的」「シュール」であっていけないわけではないが、私の、イメージありきでその表層をなぞり音楽に置き換える企て(描写音楽、標題楽の発想)は、悉く不毛に終わった。このアルバムと出会って、作曲のスタンスが変わったし救われた。このアルバムをシュールと評することも出来るかもだが、「シュールを作曲・表出してる」わけではなく、逆に「システム」を設えることに徹してるふうに見える。その中に放り込まれた音の素材が物理的即物的に振る舞うための。音の振る舞いが「作曲・表出」のコンヴェンションを逸脱してるので結果としてシュール、ということはあり得る。結果を予定しないこと=新たなシュールを拓くこと。

以前 Pink Floyd 作品について、純粋にメンバー4人だけで作ってる 'Echoes' が好きで、他人のアレンジの手が加わりゲスト・ミュージシャンが多数参加してる 'Atom Heart Mother' に違和感を覚える、と書いた。音楽はエンタメではない、個人の、のっぴきならない表現であって、他人に手伝ってもらうことで出来が良くなっても意味がない、私はいちリスナーとして、アーティストがその人自身であるところを見たい、それによって救われたいのだ、と。

でも、なら、アーティスト個人ということを突き詰めるならば、彼にとってバンド・メンバーは「手伝い」ではないのか?

このハッシュタグ #自分自身を造り上げた洋楽のバンド10選 がなぜ「バンド」縛りなのかを考えてみたのだった。理由として思い当たるのは、①音楽を個人の表現として見てない、エンタメ作品としての出来不出来で見てる、②「作曲」ではなく「演奏」メインで見てる。

ソロ・アーティスト Eno をここで挙げるのはむろん反則だ。でも「アーティスト」ではなく「バンド」を挙げるというのは、私にはじっさい難しいのだ。

8. Henry Cow

私が Henry Cow に大喜びしたのは「コンポジションが突き詰められてるから」だった。「アヴァンギャルド」のひとことで片されがちだけど、私は Henry Cow を「アヴァンギャルドだから」好きなのではない、というかそのふたつはこの際同じ事かも?

たしかに、もちろん、私は 'Living In The Heart Of The Beast' の表出力にこの上なく心を動かされた。でも「'Ruins' のコンポジションとしての突き詰めと純粋こそ Henry Cow」と思ってたところにそれだったので、「Henry Cow に『心』を動かされていいのか?」という戸惑いと後ろめたさがあった。となると、ヴォーカルを含むということも、コンポジションの立場からは「卑怯」な手ともいえる。

もちろん、例えばベルクが表現の人・耽溺の人であるということが、同時に彼が書法の人・知性の人であることを些かも損なわないのと同様、'Living In The Heart Of The Beast' はまず書法のとんでもない緻密において評価されねばならないが。

Genesis や PFM に馴染んだナイーヴな審美眼が、次に差し掛かったクラウトロックを最初からすんなり受け容れたわけではなかった。ときに造形がグズグズのサイケや、無機質なエレクトロビートの反復は、どう聴けばよいものか、戸惑った。そんななか、9. Can の 'Soup'("Ege Bamyasi" 所収)、10. Faust の 'Why Don't You Eat Carrots'("Faust" 所収)、11. Neu! の 'Super 16'("Neu! 2" 所収)には大いにピンと来て、これらを契機にクラウトロックが親密なものになっていった。