ミー子

ぉぁああおうぅぅ

「牧神の午後への前奏曲」が最後まで演奏されるのを初めて聴いた

ピリオド演奏によるドビュッシーを初めて聴いた。

Debussy "Prélude à L'après-midi d'un faune"

指揮: François-Xavier Roth、オーケストラ: Les Siècles

シャンゼリゼ劇場でのライヴ

2025年リリース

 

聴きたいディテイルが全部聴こえて来るし、ブレンドされた響きとしてもうっとりする美しさ。

演奏時間が9分に満たないことも、正しい。

 

で、びっくりした点をメモっておく。

 

① 3'53" 目(51小節目)の、第1ヴァイオリン×2+第2ヴァイオリン×2、ヴァイオリン4声による和音が降下するところ。これがこんな「和音そのもの」みたいな響きで鳴るのを初めて聴いた。ピリオド演奏の最大の強み。

 

② 5'58" 目(81小節目)と 6'28" 目(90小節目)のクラリネット×2+バッソン×2による「フパフパフパ」という音形に、はっきりしたクレッシェンドが付されてて、びっくりした。

譜面はどうだっけ?と確認したら、たしかにクレッシェンドが付いてる。

従来のいくつかの演奏を聴き直すと、ここをこんなあからさまなクレッシェンドでやってる例は、あまり無い。唯一、アバド/ベルリン・フィルが、81小節目については「意思的な」クレッシェンドでやってて、こういうところ流石アバドだなあと思う*1。90小節目については、他パート(フルートとハープ)が重なって来て、そもそもここにこの音形があることを聴き取りづらい。

逆にいうと、この Roth の演奏では、90小節目の他パートが引っ込んでしまってる、ということだけど。

 

③ でも、いちばんびっくりしたのは、終わり方。この曲が最後まで演奏され CD に収録されるのを、初めて聴いた。

以前こういう記事を書いた:

「「牧神の午後への前奏曲」を終止線まで収録した CD を聴いたことがない」

この Roth / Les Siècles の演奏では、最後の音符が減衰し終わったあと、書かれた休符の長さ分、暗騒音が収録されている。ライヴ録音で拍手が起きてないということは、その間、指揮棒が下ろされることなく静止していたことになる。

ものすごく嬉しい。

 

あと、

④ 1'54" 目、22小節目のフルートの終わりの2音、dis、e の符割を、「8分音符2つ」ではなく「付点8分音符*2+16分音符」でやってる例は、少数派だと思う。

私が初めて読んだこの曲の譜面は全音海賊版*3ポケットスコアだった。そこではここは後者で書かれてたと記憶する。なのでいろんな CD を聴くたびいつも「なぜ譜面通りにやらないのだろう? その方が弦の符割との噛み合いがかっこいいのに」と思ってた。

いま手許にある音楽之友社のポケットスコアは「マックス・ポンマー校訂版」なのだけど、ここでは前者で書かれ、脇に「ossia」として後者が書かれてる。

 

この演奏を知るまでいちばん好きだった「牧神」の演奏を貼る。モントゥー/LSO。11か月前に上がってる。これまでこの演奏のつべはモノラル・ミックスしか見つけられなかった。

*1:そのアバドの、LSO との録音では、このパート自体が奥まったミックスになってる。

*2:厳密にいうと「8分音符と16分音符のタイ」。わざわざタイで書くのは、作曲者がこの付割にどの程度の厳密さを要求してるかを示す、のだろうか?

*3:基づく版が書かれてなかったので、「海賊版」と呼んでる。

新海智子「After Brain Damage」がひとまず曲の形になった

歌物ですが、歌メロはクラリネット(など)の音色でなぞってます。

イメージとしては、ヴォーカルは David Gilmour +1人(Richard Wright?)の斉唱で、部分的にハモります。

 

作曲のきっかけについては前回書いたのですが、じつはもうひとつ裏設定があります。

仮想のユニットの相方*1に「新海の曲はいつも、感心はするけど感動はしない」といわれた、という想定で、「私らしい作曲」から離れて、「やればできる」ことを示すことだけを念頭に書いた、のでした。

ふだん、造形について、譲れないこだわりとかあるわけですが、それも外してやってる。

2025年以降の私の作曲は緩いのですが、それは趣味に忠実なゆえの緩さでした。今回のこれはそれとも違う、緩さ。

*1:以前、拙曲「テクノ」作曲の経緯についての記事で出て来た子です。

新海智子「After Brain Damage」

私のプログレ入門は『狂気』だった。就中 'Brain Damage' に鳥肌を立てた。

但し、核となるライン、アルバム・タイトルを含む

I'll see you on the dark side of the moon.

へのメロディの造形があまりに不作為なのが、小6の私の腑に落ちなかった。

その時私がこのラインから思い浮かべたメロは、こうだった:

これを今回打込んでみると同時に、芋蔓式に浮かんだ楽想があったのでこれも繋げた。新たに浮かんだ箇所はピンク・フロイドの歌詞とは無関係。

上掲譜面のメロは 0'58"~ に出て来ます:

 

関連記事:

03月21日の、夢と、曲のメモ。

私がこの夢を見たのは03月21日だったと思う。ツイッターで03月20日に「高野竜氏が化石採集会に参加なさった旨の御連ツイ」を拝見した後に、これに強く影響されて見たのだった筈なので。

強い印象の面白い夢だったのに、その日はメモする気力が無かった。

目醒めて憶えていたシーンのさらに前段があった筈で、そこが何かの調査のために離島を訪れたシーンだった筈。

 

青く澄んだ海の上を、筏的なもので移動する。波は、転覆の心配がない程度に穏やか。

高野氏「では〇〇島に向かいます」

筏というか、1枚のマット(複数人乗れる広さ)で、私は両手でマットの2か所を掴み、これが海面より高くなるように支持している。私が面してるのは後方で、私の背中側=進行方向側に高野氏。つまり姿は見えてなくて、声だけ聞こえる。

さらに高野氏「名瀬に向かいます」

これは予期せぬ長距離で、本来この筏ではなくしっかりした船で移動すべき、調子に乗り過ぎでは?と思う。この進路の通告は同時に、これが帰路であることを意味する。

帰路ということは、穏やかな海面が終わって、より危険な激流を遡らねばならないのだった。

丘の上、ホームに近付いた段になって、高野氏がいないことに気付く。慌てて坂道を駆け戻りながら大声で「先生!」と呼ぶ。

途中で、ある店の店主が声を掛けてくる「先生ならさっきうちから電話掛けてましたよ」

水路脇の道を歩いて登って来る高野氏と正面から出会う。私はほっとすると同時に「心配させやがって」と怒鳴りつける。氏は氏で私の行動へのお叱りがある様子(白目を剥いている)だが、私はそれを上回る勢いで「私のせいで先生がなくなったということになるところだったんですよ!」

 

目醒めた時に頭に残ってた曲(これは打込みでメモった)は、夢内容の続きだとしたら最後のシーンで鳴ってたことになる筈だけど、イメージとしては筏での穏やかな移動のシーンに相応しい。ドラム・パートは目醒めてからの創作です。

木の音 純粋な聴覚

音色を「純粋な」聴覚で聴くとはどういうことか。

「どんな」音であるかだけを聴き、「何の」音であるかを問わないこと。

 

と、拙曲「JB」の最後のパート(1'07"~)にウッドブロックの音色を置きながら、思っていた。

ここにウッドブロックを入れたのは「木の音」が欲しくなったから。かつ、それはこの曲のインスピレイションの元である Jessie Bayes のこの絵のイメージから来てる:

 

音が発せられるには「現場」がある。木を叩くと木の音がする。金属を叩くと金属の音がする。

「木の音が欲しい」という欲し方をすることが出来るのは、私がウッドブロックを叩いた経験があり、楽器の絵姿と音色とが結び付いているから。そしてイメージはその楽器ひとつにとどまらず、木製品一般、木材一般、いきものとしての木、森へと、繋がり、広がってゆく。

音色は音色それ自体として純粋にあることが出来ず、どうしても文脈を背負い込んでしまう。

 

私にはもうその聴き方しか出来ない。音をどんなに微細に聴き取り、どの高さの倍音がどの大きさで鳴ってるかを分析出来たとしても、「木の音」「金属の音」と聴いてしまうことから逃れられない。

私は常日頃「純粋」の語を使いがちだ。音楽の自律と純粋。でも音色ひとつとっても「それそのものとして純粋に聴き純粋に扱う」のは不可能だ。

もし、完全に純粋な聴覚の持ち主というのがいるなら、それは、音が鳴らされる現場を体験したことの無い者、実際に物を叩いてみたことの無い者のことだ。録音だけでその音色を知ってる。それがどうやって生じた音なのかを知らない。

その者の耳で音色を聴き、扱うことが出来たら。(仮定法)

「ギター×2」

前回貼った目下の最新曲「JB」。

この最後の箇所 1'07"~ のメロ(チェレスタの音色でやってる)は、前半が「タタ、ター」始まり、後半が「タ、タター」始まりなことが特徴なのですが、これが、私の最も古い部類に属する曲の使い回しなことには、自分で気付いてました。

曲というか、簡単なメモ。作曲としても緩いし、演奏も手すさびというのに近い。

ギターを2回重ねて録音した音源はもう手許から消えてます。今回、記憶を頼りに、打込みで再現してみました。

殊更お耳に入れるべきものでもないのですけど。0'28"~ が、使い回した箇所です。

新海智子「JB」について

作曲の手順に即していうと、3つの部分に分かれる。

① 0'00"~ 0'39"

② 0'39"~ 0'52"

③ 0'52"~ 1'20"

 

作曲のきっかけと経緯

この絵を見掛けた。

Jessie Bayes という初めて知る画家の、"To The Night & The Cloud" (1914) という本の中の見開き*1

私にはまったく異例のことなのだけど、この、青く澄んだ媒質に満たされた空間、その質感を、音楽に移したい、という願望が湧いた。

具体的には、まず、ごく断片的な2つの楽想が浮かんだ。すなわち、

0'08" 目の弦の3連の下行

と、

0'20" 目のクラのメロとそれを受け継ぐホルンのメロ

がメモされた。

「絵に触発されること」「絵のイメージに音楽で沿うこと」を目論みつつも、楽想が楽想を呼ぶしかたは自律的で、展開するに任せるうち、絵のイメージからかけ離れて行った。

「最初のイメージは《きっかけ》だったのだ、出来たものはこれはこれとして面白いし、こっちの方が方法として全く正しい」と積極的に諦めた。「絵に音楽で沿う」ことに拘泥すると、不毛に陥る。

以上が「① 0'00"~ 0'39"」の部分。

 

で、ちょっと思い直して、もう一度原イメージに沿ってみようとしたのが「③ 0'52"~ 1'20"」の部分。ここでも結局逸れてしまったけど。

 

中間の「② 0'39"~ 0'52"」の部分は全く別の由来。Ayelet Rose Gottlieb 'The World in Translatoin' からヒントを得てる。

1'24"~ 2'21" の箇所でギター・パートがワン・ノート(または長2度で重ねたツー・ノーツ)を引っ張ってるのを聴いて、アイデアが浮かんだ。よくある「共通の構成音を含む和音を連ねる」のとは違って、「相互に独立したフレーズが、とっかえひっかえ現れて、でも共通のノートを含んでて、そのノートの持続として聴こえる」というもの。

*1:インスタで見た。ウェブ上には "To The Night & The Cloud" からの他のページはたくさん見つかるけど、この2ページはそのインスタのポスト以外では見つけられなかった。