ミー子

ぉぁああおうぅぅ

Wings 'My Love'

最初の音、ホルンだと思ってた(隣室から漏れ聴こえて来るのを聴いたことしか無かった)。

ホルン+オーボエかなあ?

 

「A」だからオケのチューニングか(今更)。だとしたらオーボエが先か。

それを模したというより、実際のチューニングのシーンから引っ張って来たのかな?

 

「夢見るような楽想」「作曲段階での着想」と思ってたけど、事情が違いそう。レコーディング現場での思い付きなのかも。

 

曲が「B♭=Ⅳ始まり」ということと、「チューニングの A」ということとは、それぞれ動かせない、初めから決まってることだから、この2つをぶつけて「Maj7」を得たのは、偶然、なはず。

 

聴き手的には、まず単音の A の持続&フェイド・インで「A がキーの曲」と思ってるところに、この単音が「B♭Maj7 の構成音、しかも 7th.」だったことに驚き、さらに曲進行のある時点でこの B♭がキーではなくサブドミナントだったことに気付き、驚く。

 

追記

'My Love' のシングルは Paul McCartney & Wings 名義で出たのですね。

この記事はタイトルに「Paul McCartney & 」を入れておけば多少はアクセスを頂けたのかも知れません。

ただし、表記ゆれは激しいです(Discogs による):

夢 2024年03月17日

人通りの多い表通りで気付くと私は靴が右足だけ。左足は完全な裸足だけどこれも地面に付けて歩くことと、左足を右足の上に乗せてぴょんぴょんと飛んで前進することとを交互にやる。さすがにみすぼらしいので、(既に家からそれなりの距離来てしまってるけど)いったん家に引き返す選択をする。「どうせ私の足など誰も見てない」と考えかけるが、見えるわ!

 

大昔ユニット組んであまりうまくゆかないまま解散した相手のヴォーカリストと久々に対面してる。

彼女「再開できますよ」

私「じゃあ今すぐスタジオ予約する?」

彼女渋る。

私「今何やってるの?」

彼女「歌ってますよ」

そうだった。彼女は今はヴォーカリストとしてメジャーに活躍してるんだった。じゃあ動かせない予定が詰まってる。

彼女「小口さんと話したでしょ?」

そういえばちょっとまえにどこかのライヴ会場で彼女のバンドのメンバーとやり取りして彼女の安否を尋ねた気がし出す。

私「どこで? どういう内容を?」

彼女「〇〇〇*1

何やら謎とき乃至格言めいて、今ここの文脈にそぐわない。

彼女「小口さんはキャッチーな作曲にかけてはすごい才能なんですよ」

その彼女と、今、私が組むことは、私にとってどういう意味があるのか、彼女のブレイクに私が便乗させてもらうことなのか、もう私は自分の本当にやりたいことしかやりたくないのだけどそれを枉げることになるのか、など考える。

彼女ともう一人の誰かとのやり取りを脇で見てるの図になる。彼女はキャピついたキャラに変わってる。

 

その後数人で雑談しながら住宅地の通りを移動するなど。

 

夢の最後で J-POP のキャッチーの例として楽節が聴こえ出す。たしかに B のトニックと見せかけての F# のサブドミナントが、ポップにおいてはそれなりに効果的、でも変位を使ってないという意味では転調的ではない、B のトニックと取るならリディア旋法ということになる、など考える。

*1:明晰で意味の通る日本語だったが、目醒めてから内容を思い出せない。

メモ(小澤征爾)

小澤の録音を頭の中で思い浮かべる時最初に出て来るのがこれの 4'32"~ 4'37" の「ずれたタンバリン」なのは私の不幸だ。

「TAMBOUR DE BASQUE」というのだな。

私はラヴェルのオーケストラ曲の演奏の聴き較べを『スペイン狂詩曲』でやる習慣があった。この箇所はそのチェック・ポイントのひとつだった。

 

小澤には何度か触れてるけど、基本褒めてないのだよな…

「(『ラ・ヴァルス』演奏で)他人様にお薦めするのは小澤/ボストン響だったりする。曲全体を通してのテンポ設計とか、勢いとか、なにより所要時間が短めなのがよい。でも小澤/ボストン響の録音はいったいに、分離が悪くて、オーケストレイションを絵解きするのではなく、ブレンドした結果としてのオケの音になってる」

「他人様にお薦めするのは」とは「私自身は聴かないが」。初めてお聴きになる方にはこれをお薦めするのが妥当だけど、曲をある程度知ったうえで、突っ込んで聴くためにはブレーズ/ニューヨーク・フィル、の意。

 

武満の対談で、誰かの西洋と東洋を如何にも安直に接合したような曲を、小澤が取り上げるか好意的に評価するかしてるのについて、「僕のノヴェンバー・ステップスも同じような料簡でやってたのかねえ」みたいに言ってた箇所、対談相手が誰だったかも忘れたし、ちょっと探しようがない。

ある方から「文春の立花隆との対談の可能性が高い」との情報を頂戴した。ありがとうございます。

あるいは、『武満徹対談集・上――創造の周辺』(芸術現代社、1976年)所収の谷川俊太郎との対談に出て来る「この間の国連での音楽会」というのが、同じ演奏を指してるかも知れない。ただ、ここでは作曲者、指揮者の具体的な名前は挙げてない。「ノヴェンバー・ステップス」とも言ってない。

武満徹対談集・上――創造の周辺』(芸術現代社、1976年) p. 123

「ぼくの仲間が作曲したり、ぼくの仲間の指揮者が演奏したりしていて、いつもあんないい気な態度でおれの曲もやってたのか、あのやろうと思ったりしたわけだよ」

 

オケ団員との人間関係構築云々のことは私の物思いの埒外だ。「演奏者に愛される」ことが正しいアウトプットを生むための必要条件かどうか知らない。

録音物でしか知らない小澤だけど、つまるところ彼の音楽づくりの何が優れてるのか、私はピンと来ないままだ。

Pink Floyd 'Echoes'

19'11"~ のヴァースの再現部で、ハモンドとは別に和音を奏でてるの、何の楽器だろう? ソリーナみたいにも聴こえるけど、この曲での Richard Wright の担当は

vocals, Hammond organ, piano, Farfisa organ

となってる。ファルフィサ・オルガンでこういう音色を出せるのかな?

 

再現部開始と同時に鳴り始め、でも最初の和音の全音符1個のうちにディミヌエンドしていったんミュートされ、8小節目でクレシェンドして蘇る、のが美しい。

20'44"、21'11" の

には、音形と、音域と、音色から、ホルンを聴き取って、気に入ってた。これもファルフィサ・オルガンでやってるのだろうか?

 

この和音のパートは「清め」に聴こえる。

このパートは、2'57"~ のヴァース最初の登場時には鳴ってない。

文学的・印象批評的に言ってしまうと、曲が進行するうち、疎外・孤独・世界からの隔絶に寒々とした思いに苛まれ、その果てに戻って来るヴァースが「浄化」で注釈される。

たしかに私はこの曲を貪り聴いてた小6当時、このパートのこの音色に差し掛かる時、何も解決されてないしハッピー・エンドでもないこの音楽の、依然寂寞としながらもしかし何かに向かって開かれた明るい諦念を感じてた。そして終末に向かって運ばれる。

 

今回「ヴァース」と書きながら気付いたけど、この曲には「サビ」が無い、というかヴォーカル・パートがサビを歌わない。

この曲はヴォーカル・パートをもつけれども、断じて「ウタモノ」ではない。インスト曲であって、そこにアレンジの要請からヴォーカルが置かれてる。

たんに長さ的に「曲全体の長さに比してヴォーカルの出番が短い」だけでなく。

Eno 'Sky Saw'、Television 'The Dream's Dream'、サディスティック・ミカ・バンド「四季頌歌」もこの仲間だ。

 

関連記事:

夢 2024年01月06日、あと YMO

長くて場面転換が多くて雑多な夢だったが(樋口可南子氏がご登場になったり)、最後のワンシーンが印象に残った。

 

YMO の曲を、外国のあるアーティストがリミックスしたものを聴く。

YMO のオリジナル(曲調そのものは「ライディーン」っぽい)には1か所、数秒間、「壁1枚隔てた隣室から聴こえて来る」みたいな音場の箇所がある。

件のリミックスはそこから始めて、曲が「ふつうの」音場に戻るポイントを通過してなお、その音場のままで、私は「おっ!」と声を漏らす。

つまり曲全体をその音場(エフェクトやイコライジングの設定)で解釈し直すリミックスなのだった。

 

私が YMO でいちばん好きな曲は 'Neue Tanz' だけど今まで貼ったこと無かった気がする。

改めて聴くといろんな音が鳴っててびっくりする。パート数=トラック数が多いということでもあるし、ひとつの音色の中に複雑な倍音構造があったり、ひとつの音の出来事と勘定される中にも構造や移ろいがあったり、ということでもある。

冒頭のスネアひとつとっても、残響が F♯3 あたりのピッチをもって聴こえるのは、ディレイをリング・モデュレイション的に使ってるのか、何なのか、私はエフェクターのことまったく判らないけど*1

1'01"~ 1'06" でベースのノートとは別に鳴ってる低音、何の音だろう? キックに共鳴して鳴ってる何か、かな?

私のベースのセンスは、この曲のベースからの影響が大きい。弾けないけど。思い付くフレーズの元ネタ、という意味で。

 

'Taiso' でのベース・パートの役割の大きさに改めてびっくりする。

曲のビート(ハンマー・ビート的な)を作るのに、ベースのゴースト・ノートが効いてるみたいだし、3'11"~ 3'35" ではたんなるゴースト・ノートというのではなく、響きとしてもハーモニクスで貢献してるように聴こえる。

もしかして 1'04"~ 1'12" の、ドミファ、ドミファ、ドミファ、もベースのハーモニクス

2'16"~ 2'39" のリード・ベースは今まで意識して聴いてなかった。

1981年新宿コマ劇場ライヴでのベースは、全然違って、もっとシンプル。あと、MV は、「私の嫌いな YMO」が溢れ出てしまってるので、今回は音声のみのつべで。

*1:ディストーションのフィードバックのホットスポットの周波数の設定、とかではないと思う。

Rainbow 'Stargazer'

私は Rainbow を全く知らない。

ただ、ダイアトニックでモニュメンタルな

が、「出典不明のキラー・チューンの断片」として、いつしか脳内を占め、折に触れイヤーワーム化してた。

ある機会に、これが Rainbow 'Stargazer' のサビなのを知った。

 

この曲は、ブルーノートとダイアトニックの交替の判りやすい例。

Aメロ(0'50" まで)がEm のブルーノート、サビ(1'15" から)が G のダイアトニック。

そのあいだのBメロ(0'50"~ 1'15")は、ダイアトニックといっても、B(Em のⅤ)上の Em の和声的短音階

3'22"~ 4'37" のギター・ソロも「B 上の Em の和声的短音階」ではあるのだけど、延々引き延ばされるうちにドミナント感を失い、b が主音の

という音階に聴こえだす。これに名前が付いてるか、また出自をどこに求め得るか、私は知らない。カトリック教会旋法由来のダイアトニックとは異質、といいつつ、プログレには頻出するし(Genesis とか)、とくにこの 'Stargazer' の場合、どうしても「Zep の 'Kashmir' の 3'21"~ み」として感じられる。

'Stargazer' の 4'37"~ の順次上行は、'Kashmir' の 7'00"~ のパクリといっていいのではないか?

エンディングの、反復がしつこいうえに結局フェイド・アウトなのも、'Kashmir' への無駄な対抗意識なのかも?

ちなみに 'Kashmir' を収める "Physical Graffiti" が1975年、'Stargazer' を収める "Rising" が1976年。

 

Rainbow は「レインボー」表記が一般的なのですね。Chris Rainbow を「クリス・レインボー」とは書くまいに。

「二重母音は長音表記」の筋を通すなら「レーンボー」だし。

「いちご畑」と 'Strawberry Fields'

あーーーー!!!!!

松田聖子いちご畑でつかまえて」の 0'22" 目、

よあけ「をぬけて」

のメロの音程関係、 The Beatles 'Strawberry Fields Forever' の 0'52" 目の、

It doesn't matter「much to me」

だ!!!!!

 

アメブロの るそんべえ 氏の御記事で、今日が大瀧詠一が亡くなって10年の日と知り、大瀧曲として唯一私が知ってる「いちご畑でつかまえて」を聴いたのだった。

で、上述の箇所に気付いたんだけど、私がこの箇所にことさらこだわるのには理由がある。

 

'Strawberry Fields Forever' の件の箇所の「シ→ラ→ド」の動きは、私がこの曲の2つのキモと目するうちの1つなのだ。当ブログでも過去何度か触れた。この動きは中世ヨーロッパ音楽に特徴的。

ただ、レノンがこのことに自覚的だったのか、たんに歌い方がヨタってこうなってるのか、微妙ではある。いろんな人のカヴァーを聴くと、「シ→シ→ド」と歌ってる人(Pガブとか)と、厳密じゃない人、が多い。なかでフジファブリックさんははっきり「シ→ラ→ド」と歌ってる。

 

いちご畑でつかまえて」が詞先かメロ先か知らない。「いちご畑」の語が先にあって作曲者がこれを踏まえる、ということが制作の手順的に有り得たのか知らない。

でもどう考えたって、コーダの、フェイド・アウト→フェイド・イン→フェイド・アウト、は 'Strawberry Fields Forever' へのオマージュだ。そのことには私自身従前気付いてたし、周知の事実だと思う。

で、大瀧がもし「いちご畑でつかまえて」作曲に 'Strawberry Fields Forever' へのオマージュを仕込むとしたら、このコーダの音量処理ひとつだけで済ます筈がない、と今にして思う。よあけ「をぬけて」の音程は、大瀧の、'Strawberry Fields Forever' を知り尽くした上での、キモを押さえたオマージュ、と考えないわけにゆかない。

 

ちなみに、私が 'Strawberry Fields Forever' のキモと目するもう1つは、Nothing is real の2小節(0'20" 目)。

最初聴いた時、コードと歌メロの関係に、「むりやり!」と戸惑いつつ、この箇所こそこの曲のキモ、と思った。

F♯ のコードの上に歌メロが ソ→ラ→シ♭→ミ だから、今にして思えばコンディミなわけだけど、レノンの意識の上では、そういう分析だったのか、もっと本能的なものなのか。