ミー子

ぉぁああおうぅぅ

夢 2025年01月12日

……通りに面する右隣は覗き込むとお寺(あいだに1軒お店があった筈な気もしたのだが)。前庭の向こうに本堂。まばらに人(知り合いはいない)。土足で入れる広い空間の、左側の入口の足許真ん中に来訪者の物と思しき荷物が無造作に置かれてる。その右脇を通って入る時、右手に設置された背の高い何かの脚部分に付属する白い敷物が通り道まで出っ張ってて、それを踏まないように避けて、置かれた荷物との間の狭くなってる床面をすり抜ける。入口から見て奥側にご本尊がいらっしゃるイメージだったのに、その真反対側が1メートル高くなったステージ状の段で、その上に高さ2メートルの質感的には白い漆喰の張りぼてに彩色されたような女性の仏像。道教の女神像っぽい。ステージ上方左右に飛天的に置かれた彫像の顔も同じキャラと思しき女性。

以前ここに来た時は、隣接する2つのお寺のうち、もう1つのほうに先にお参りしたのだった。そういえばもう1つのほうのお寺のご本尊は何だっけ?と確認のため行ってみることにする。以前は鄙びた砂利道の坂を上って集落を抜けて、まず右に鋭角に折れてそのお寺に行った。今それをトレースするように歩く。「一旦突っ切って戻って来る(山際の傾斜に敷かれた道がジグザグになる)」的な内容の、寺への道順を折り込んだ民謡の歌詞が聴こえてくる or 脳内に浮かぶ。勾配の無い道は人家の集落に通じてそう。「こっちじゃないな」左に上ってもう一段山側の筋を行く。私はいつのまにか裸足で、ブラウス1枚の薄着。砂利道の痛さよりも見た目のみすぼらしさ場違いさを気にする。さっきのお寺に入る時脱いだんだったか?でも足許の障害物を避けはしたけど土足のままだった筈、と思う。

こちらのお寺は規模が小さい。如何にもお寺然とした建物・門構えではない(内部は購買っぽい)。奥の、歩いて上り下りできる程度の高さのステージで法要。お経を上げ終えたお坊さんが段を降りる時、私は「御用があってお待ちしてたのではない、ご本尊を見るために覗き込んでいたのだ」と示すための機械的な会釈をする。

このお寺の左脇からさっきのお寺に抜けるルートがあった筈だけど、道案内の標識が見当たらない。取り敢えず水辺の茶色く枯れた草原(くさはら)を行くと、「デンマークが勧告ないし命令を出して、このルートを通行禁止にした。信心は大変結構だが、道すがら水に飛び込む者が後を絶たず、見苦しいので」という情報が入る。私はそれに従う行動を取りはしないが、草地に佇んで水面を眺めつつ、脇に並んで一人立つ人の性別を気にし、顔を覗き込む。あごひげがあった。

幾らかの試行錯誤の後、まっすぐな道の行く手、手前の建物を背丈で抜いて黒く聳える「お寺然とした」建物が見える。向かう途中、女性と女児(施設の職員と園児なのか、親子なのか)が同じ方向に向かっていたが途中で右側に逸れる。進むうち、近づいて大きく見えだした手前の建物に隠れて目的のお寺が見えなくなる。見え始めるはずの地点に来ても、お寺は見えない。来た道を戻りつつ、右手に差し渡し5メートルほどの池、ここにも飛び込む者がいるのかな?と思う。お寺といっても付随する業務(ご飯の仕度とか)のための施設が囲んで一体系を成してる筈で、さっきの女性と女児が逸れた先はお寺と無関係の施設ではなかったのかも?と思う。

目的のお寺ではない、味気ない思いをしつつ見上げる建物たち(来るとき右手だった、今引き返してるので左手に見えてる)、でも想像される用途のわりにやけに背の高い建物とか、その屋上に犇めく何かの装置群とか、もそれなりに面白い。歩を進めて角度を変えてみると、装置群を頂くのは鉄塔だった。動画に収めておこう、と思うが、スマホを持って来てない(薄着でポケットが無い)と気付く。

 

追記 2025年01月14日

もうひとつ思い出した。

2つ目のお寺を出る前に、壁に掛けた布袋的状差しにおみくじがいくつか入ってて、うちひとつを引く。小さく丸っこい紙包み。お寺入口にもおみくじがあったけど、自販機=どのくじを引くかが機械任せだった。こちらのは自分で選べるので引く意味があると思ったのだった。ひとつのつもりがふたつ引いてて、うちひとつを状差しに戻す。未開封だけど中身の上端が見えてて、ふたつは紙の色が濃緑と薄緑の色違い、文の1行目に、ふたつ共通に「イギリス」「ドビュッシー」の文字を含む。

Il Sidillo Di Horus "Effimera"

01月08日は Celeste のリーダー、ドラマーでマルチ・インストルメンタリストの Ciro Perrino のお誕生日だそうです。おめでとうございます!

 

そういえば私 Grog Records のものは Picchio Dal Pozzo と Celeste しか聴いてないな、と思って。

アルバムのリリースは5枚。

GRL 01  Mandillo "Mandillo (1976)

GRL 02  Celeste "Celeste" (1976)

GRL 03  Picchio Dal Pozzo "Picchio Dal Pozzo" (1976)

GRL 04  Corte Dei Miracoli "Corte Dei Miracoli" (1976)

GRL 05  Sigillo Di Horus "Rendez Vous" (1977)

 

今回残りの3枚をつべで聴いてみました。

"Mandillo" は、フォーク・ロック的なラフで穏やかな基調がありつつ、随所に遊び・逸脱があり、私はその逸脱のほうに反応してしまいます。

"Corte Dei Mracoli" は、キーボード×2、ベース、ドラム、ヴォーカルという編成で、音組織に意識的(といってもヴァースに入ると歌物的陳腐なコード進行になる場面があります)、出音的にも硬質で、緊迫を以て曲が展開するので、"Mandillo" といろいろ対照的です。

どちらも気持ちよく聴き通しました。

 

問題は Sigillo Di Horus "Rendez Vous" で、途端にライブラリー・ミュージック的な小品集で、レーベル・カラーにそぐわないのかそぐうのか。もともと Magma レーベルから1976年に "Musiche Stellari" のタイトルで出たものの再発、ということのようです。

ところが、同バンドの、2018年に Black Widow Records から出た "Effimera" は、リキ入りまくったプログレ・ヘヴィ・ロックで、そのインパクトと、前作とのギャップに、びっくりしたのでした。

これを取り上げることが今回の目的です。

"Rendez Vous" の Sigillo Di Horus と "Effimera" の Il Sigillo Di Horus、Discogs で同じバンドとして扱われてるけど、ほんとに同じバンドなのか?

アルバム "Effimera" 通して、各トラックのミックスの状態がまちまちなこととか、決して高品位のミックスじゃないこととか含めて、謎。

 

追記 2025年01月10日

"Effimera" は、1973年に本格始動したバンドの、1975年のシングル 'Sei Davanti A Me' の両面2曲と、当時の未発表曲を収録、2018年にリリースしたもの、だそうです。"Rendez Vous" の同名バンドとの関係は依然不明です。

今現時点を境に、未知が、既知に、きれいに置き換わってゆく。

Wishbone Ash 'F·U·B·B'*1、"There's The Rub"(1974年)のラスト曲。

今回のこの記事では、この曲自体についてではなく、私の体験した今まで類例のない特殊な「聴き方」について書く。

 

「素晴らしいアルバムラスト曲」の1曲としてこれをお挙げになってる方がいらして、どんな曲だっけ?とつべで聴いてみたのだった。

 

"There's The Rub" を私は、ロック聴き始めの早い時期、中坊の頃に知った。どちらかというと、同居人がかなりの頻度掛けてるのを傍で聴いてた。自分でターンテーブルに乗せて聴いたことが、1回あったかも、という親密度。

 

今回、聴き始めで「めっちゃ聴き憶えある!」ってなった。こういう場合普段なら、この段階で曲の先まで見通せて、曲の全体像をいちどきに思い出すのだけど、今回はそれが起きなかった。

現時点鳴ってる音にものすごく聴き憶えがあるかわりに、次の瞬間に何が起きるのか、まったく思い出せない。それが曲進行のあいだずっと続いて、新たな瞬間が現れるたびに、音形について、コード進行について、ごく細部に至るまで「そうそう! そうだった!」ってなるのに、それをきっかけにその先が見える、ということが一切ない。

今現時点を境に、未知が、既知に、きれいに置き換わってゆく。面白くて笑い出す。

さいご、

たったったたったったったたたたーーーーーーーーーだかだかだかだかだだっだだん!

と唱和して痛快に〆た。

ただ、そのあとに、ヒトの鼾みたいな物音が入ってることは、今回初めて知った。

*1:Wikipedia「There's the Rub」の項では「F.U.B.B.」になってる。

新海智子 2025年1曲目(「序曲」)

去年12月31日23時45分ごろ曲が頭に浮かんで、打込み作業に取り掛かり、キーボードに向かった状態で年を越えたので、「1年を密度を以て過ごす」ことについて初速度を付けることに成功しました。その後毎日キーボードに向かうことが出来ています。

「序曲」という仮タイトルは、今後あるテーマでシリーズ化する予定の、その冒頭に置く曲、ということです。それが何のテーマなのかについて、いずれ書くかもしれませんが、「作曲の動機づけのためのテーマ設定」なので、お聴きくださる方的に、テーマに沿った曲内容になっているとお感じ頂けるかは、判らないです。

ロックで最初にコンディミを採用したのは誰?

12月28日は Egg のドラマー Clive Brooks の、12月30日は同じくキーボーディスト Dave Stewart と、ベーシスト、マルチ・インストルメンタリスト Mont Campbell のお誕生日だそうです。おめでとうございます!

 

コンディミはプログレにありふれてる。でもロックでコンディミを「最初に」使ったのは誰なんだろう?

 

私の知る限り、Egg の 2nd. アルバム "The Polite Force"(1971年)がそのいちばん早い例。

1曲目 'A Visit To Newport Hospital' のイントロとアウトロ(0'01"~ 1'00"、7'13"~8'25")もそうだし、

2曲目 'Contrasong' では1曲通してもっと自由に駆使してる。

 

Egg の 1st. アルバム(1970年)では。

'Symphony No. 2' の 'Movement 4' の、これ

ベースの最低域の音程を聴き取れませんでした。

は、オルガンに b が、ベースに f が出て来て、コンディミから外れるけど、「コンディミを元にしてて、臨時に変位してる」と見るべきだろうか?

これの 17'42"~。

なんしろこのアルバムではまだ、コンディミをことさら意識化してその可能性を探究する、とかは見られない。

むしろ完全4度の多用のほうが目立つ。

 

ひとつ問題なのは、取入れ「元」が何なのか、という点。

ロックがコンディミを取り入れる時、その元は、ジャズなのか、メシアンなのか。

Egg の場合、そのどちらも考え得る、のかなあ?

 

私がこの問いに答えあぐねる理由は、ジャズ・ロックに疎いから。

ジャズ由来のコンディミの例を見つけられない。

 

関連記事:

メモ(何の CM だっけ?)

ある TVCM、30秒、2005年前後だったと思う。

今も時々頭をよぎる(けっこう好きだった)けど、詳細が覚束ない。そもそも何の CM だったのか。USEN か何かの CM だったと考えればコントの内容的に辻褄が合うのだけど、検索で辿り着けない。

 

実写、コント仕立て。

場所:龍宮の宴会場。

登場人物:浦島太郎(長瀬智也さん風、男っぽいけど不良っぽくて怒りっぽい)、踊り手(鯛と鮃各数尾)、三味線か何かの奏者もいたかも。

 

饗応を受けつつ、その内容が気に入らない様子の浦島太郎(「亀なんか助けるんじゃなかったよ」みたいな台詞があったかも)。

鯛や鮃の踊りは、日本民謡風の音楽に乗った、垢抜けない、単調なもの。

浦島「もっと面白い音楽無いのかよ。ジャズとか」

鯛のリーダーと鮃のリーダー、踊りを一旦中止、「ジャズ…」と復唱しつつ(そのジャンル名を初めて聞いたというふうに)顔を見合わせ、それしかレパートリーが無いのでしかたなくというふうにおずおずと、さっきと同じ踊りを再開してみる。

浦島、食い気味に「それじゃねえよ!!」

こういう場面で必要なのは有線放送ですよね、という展開、だったはず。

 

UGA(カラオケ)のパンダが登場する CM と同時期だったと思う(というかこの時期しか私がテレビを見ていなかった)し、ノリが共通してた気もする。

 

何の CM だったのか? 浦島役の俳優は誰だったのか?

John & Yoko / The Plastic Ono Band with The Harlem Community Choir 'Happy Xmas (War Is Over)'

ameblo.jp

私今までこの曲を、よく聴かずに、完全に誤解していました。

その誤解を解いてくださったジャック氏に、まず感謝いたします。

 

「全ての人がクリスマスを祝える平和な世の中になればいいね」という、ふわっとした一般論の曲だと思っていました。

「じゃあそのために、君は、我々は、当事者として何をしたか?」がキモだったのですね。

 

かつて no religion の世界を想像してごらんと歌ったレノンがなんでクリスマスなんだよ、とまずそこで反感を持ってしまいました。

でもその「なあにがクリスマスだよ」という気分は、この曲こそが持ってるものでした。

 

この曲は、音楽の作り、音楽の雰囲気が如何にも「クリスマス音楽」を踏襲してて、街の BGM としてクリスマス気分を盛り上げる用途に使えそうでいて、そこに乗せられたメッセージが逆にそのクリスマス気分に完全に水を差す。

これはたんに「我々がクリスマス気分に浮かれてるその同じ時に、別の場所で悲惨の只中にいる人々がいる」のではなくて、「我々の幸せはその人たちの悲惨の上に成り立ってる、そういうしくみになってる」ことを突き付けてるのではないか。

 

しかしまあ冒頭にお貼りくださった Techno Remix は凄いですね… レノンのメッセージを完全に漂白してる。

 

 

余談です。前回の記事ではおたずね曲の正体をご教示頂き、'Big Barn Bed' という曲を改めて聴き直してマッカートニーの「ロッカーとしての」重要性を改めて思い知りました。今回レノンの「ハッピー・クリスマス」の真意をご教示頂きました。

こういう時、最近、この歳になると、「死ぬ前に知ることが出来てよかった」という感想になるのです。

近々に死ぬ予定はありませんが。