手許に溜まってゆくものってありますよね。ドラム・スティックとか。爪切りとか。
入院を繰り返すと爪切りが溜まる。3日で退院するつもりが1週間になって、準備して来なかった爪切りを院内のコンビニで買うことになる。あるいは出先から直で搬送されたために爪切りの準備が出来てない。
ドラム・スティックが溜まるのは、予約したスタジオに入った後になってユニットの相方から「休みます」の連絡が入るからです。スティック買ってゴースト・ノートの個人練習を2時間やることになる。
有り体に言って、私の表現活動は「排除アート」です。
文章を書くにも、私は暗黙の了解を踏まえてハイコンテクストにやる。ハイコンテクストを理解することが難しい方々に配慮してこれをやめることはしません。
バンドをやるにも、リハにスケジュールどおりに出て来ることを見込めない虚弱な方とは組みません。どういう事情がおありだろうと音楽への冒涜と見做します。
いや組んでたのですけど。それでゴースト・ノートが上手くなったのですが。
音楽は身体が資本です。私がランニングを日課にしてるのを知って、その相方の彼女が
「こわーい」
と言ったことがあります。私はその言葉の意味を取れなかったのですが、少なくともカチンと来ました。
たしかに私自身、音楽やる人と体育やる人とは別の人種だと思ってた時期があります。スポーツなんかやってる人に音楽が出来る筈がないと思ってました。音楽をやるのはインドアの「青白き文学青年」、という観念を、前提として持ってた。
むしろどこか病んでることが音楽をやる必須条件とすら思ってました。
Peter Gabriel についても、まだ Genesis の曲を聴くだけで本人の人となりについての知識がない頃には、「青白き文学青年」というイメージを持っていました。当然のこととして。
ある時、Gabriel のソロ・アルバムのライナー・ノーツに、彼が Genesis 脱退後、活動を再開するまでのあいだ、サッカーの審判をするなどしていた、という記述を見つけた時、意外、という以上に受け容れられませんでした。まるでイングランド貴族は全員たしなみとしてサッカーの審判が出来るみたいに言われても。
というようなことを、こぢゃ (id:pojama) 氏が Peter Gabriel にお触れになるのを拝読して、思い出したのでした。
こちらの御記事
の
「深夜の2時間DTM」>「16回目「オルガンのグリッサンド奏法を用いた曲」」
の中で Peter Gabriel に言及なさって、
「まったく衰えを感じさせないヴォーカル」
「リリースから37年後。70歳を過ぎて、未だにオリジナル・キーで唄い、そのパフォーマンスが出せる。これはもう、natural-born performer だなあ」
「あまり、そう言うフィジカル面で語られることは無い人だけどね」
と。
私は "So" 以降の Peter Gabriel を未だによく知りません。私がたまたま聴いた中で一等好きなのは、この曲のこのライヴ(2012年)です:
あ―――!! この 1'19"~ のコーラス!!!
以前この記事でおたずねしたコーラスだ!
("So" のスタジオ・ヴァージョンでここを担当するのは女声じゃないです。)
何たる巡り会わせ。
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