ミー子

ぉぁああおうぅぅ

バイオリンの日

私は楽器で作曲することが無い。

いやキーボードに向かってやるわけだけど、キーボードから発想するわけではない。

曲は私の中から来る。それを形にするのに、12の音を平等に俯瞰できるキーボードの並びが都合がよいだけだ。

 

打込みなぞをやってると、アレンジにおける楽器の指定が、たんに、どの声部にどの音色をアサインするか、だけの問題になってしまう。

私は作曲にしか関心が無いと言い、当ブログも作曲のことしか書いてない、演奏のこととか、演奏家のこととか、楽器のこととか全然書いてない、と言うとき、それは「作曲」の範疇を限定的・特殊に捉え過ぎてる。

打込み的発想で、ノートを、音組織のオペレイションの素材としてしか扱ってない。作曲する時も、聴く時も。

 

楽器の側から作曲を見る。

たとえば、ヴァイオリンの場合、その調弦法から発想される音組織の眺望というのがあって、キーボードでカデンツを考えるのとは違う地平に立ってる。すなわち、g - d - a - e、完全5度間隔で調弦されるヴァイオリンを使って作曲することによって、「5度圏」的、リディア旋法的発想で、カデンツの陋習にとらわれずに音組織を考え直せるのではないか。

 

08月28日は「バイオリンの日」。1880(明治13)年のこの日、東京・深川の三味線職人・松永定次郎が国産ヴァイオリン第1号を完成させた。誰がこの記念日を制定したのかはググりきれなかった。

 

イザベル・ファウスト。私がヴァイオリニストときいてまず思い浮かべる人。

音色的にもスタイル的にも、端正で、芯があって、曲の構造を分析してみせる知的アプローチにも不足せず、バルトークのこの、ヴァイオリン1台で多声部の「フーガ」をやってのける楽章に打ってつけ。

 

アリーナ・イブラギモヴァの、ヴィブラートの無い透明なバッハ。

昔、誰だったか、このガヴォットを評して「陽気」のひとことで片す評論家がいて、不服だった。私の耳にはこれは、楽しいとか悲しいとかの感情を超越した、天上的に高いところで戯れる音楽だ。聴くたびに、気が遠くなって、泣く。