ミー子

ぉぁああおうぅぅ

#音楽遍歴を曝せ

Ⅰ.

金属音が好きな子だった。複雑な倍音構成の音色それ自体もだし、金属オブジェのこっちの端を叩くと、そのままの音量・音色で遠く離れたあっちの端に伝わる、とか。

アルミのボトルを叩く。だいたい物があると叩いてみる子だったのだが、左手がボトルを持つ位置や押さえ込む強さ、右手が叩くポイント、によって音色や音高がいろいろに変わる。

 

錆びた金属板は、たぶん何かの廃墟か、建物の解体現場で見つけたんだろう。音を出す目的でその大きさその厚さその形に切り出されたのではない、その金属板一枚から、「奏法」によって、「奏者」がコントロール不可能なほどに多様で思いがけない音色が引き出される。

叩くのか、擦るのか。

どのポイントを叩くのか。何を使って叩くのか。素早く跳ね返すのか、押し付けるのか。

一枚の板が潜在させる無限の倍音のうちの、どこを引き出すのか。

 

街中の、ノイズの多いスピーカや換気扇の排出口の前を歩いて通過する時、フェイズシフトが起きる。音源と私との空間的位置関係が、時間推移とともに変化すると、音色が連続的に変化する。

 

トンネルの中とか、他所のお宅のガレージの前を通る時とか、コンクリートの跳ね返りがある所では必ず、手を叩いた。リヴァーブも好きだったけど、場合によってその中に特定の音高が聴こえる。私を面白がらせたのは、ディレイだった。

1回の拍手がディレイによって繰り返される。繰り返しの周期が特定の範囲だと、それを周波数とする可聴域の音高になる。

 

スチール本棚の上辺に張られた、カーテンを吊るすためのスプリングの音に、すっかり引き込まれた。

張られた方向に爪で「ひっかく」、指の腹で「こする」、直角方向に「はじく」などの「奏法」によっていろんな音色が得られること。

はじいたスプリングが本棚本体に触れて「ジワーーン」と大きな音を立てること。

これらの音が本棚本体に共鳴して、リヴァーブがゆっくり減衰してゆくさま。

 

Ⅱ.

私は音楽の「不可能性」に苛まれるところからスタートした。

「後ろめたさ」から、音楽の存在理由について、音楽の外からの裏付けを求め、その都度挫折する時期が続いた。

農業みたいに「世の中の役に立つ」音楽は早々に諦めた。

政治と音楽は無関係だった。

宗教的「悟り」や神秘的「同一性・直接性」への手引きどころか、音楽はその邪魔でしかないようだった。音楽で神秘を表現することを企てることは、不毛に終わるどころか、ヒトを、神秘と似て非なるものにミスリードして、有害だった。

それが反転して、音楽は音楽の自律・純粋ゆえに貴いのだ、と思うようになったきっかけは、平沢進の、あるインタヴュー中の言葉「音楽なのになんでかな?」[要出典]だった。