ミー子

ぉぁああおうぅぅ

Bo Anders Persson 'Proteinimperialism'

これくらい、はっきりと理解できる音楽作品、聴くことすなわち理解することである作品、は珍しい。

理解の対象以外の要素を一切含まない作品は珍しい。

 

ヒトが音を聴くとはどういうことか、何をどう聴くことなのかを、明確に示し、かつそれが作品としての「形式」である例は、珍しい。

 

ツイッターである方がシェアして下さって、知ったアーティスト、知った曲。

 

ある物音、ある音の出来事を提示された時、ヒトの耳はその総体を聴いてはいない、少なくとも意識してはいない。

必ずその中の特定の要素を抽出して聴き、なぞり連ねて、特定の文脈に沿わせて特定の意味を聴き取る。

とくにそれが「ヒトの声」だった場合、言語的意味を聴いてしまったり、意味が取れない場合でも、それがヒトの声であるということによって、音そのものとしてのありように意識が向かうことを阻害されたりする。

 

この曲では、最初に提示される単位が、繰り返される中で徐々に「変化して」ゆくけれども、じつはそれが全部最初の提示で既に鳴っていた、という点ではこの曲は「一貫して」いる。

展開が、外から別の要素が加わって来ることによって為される、という場面は、いっさい無いのではないか。ノイズとして混入してくる要素も聴き取れない。

そこは純粋だしストイックだ。

 

最初の提示の中に含まれる特定の要素が、抽出され、強調されて、聴こえ始める。聴き手は最初、素材がヒトの声であるせいで、音高や、音高どうしの関係=音程を、楽音を聴く時のようには意識してないし、倍音構成を意識してもいない。

聴こえてはいるけど意識されてないし、意味の構成要素になってもいないものが、特定の周波数帯域のブーストによって聴こえ始め、意識の対象になってゆく。楽音の組み立てとしての「音楽的」意味を聴き始める。

 

手法として技術としては、どうやってるんだろう? グラフィック・イコライザの各帯域のフェイダの上げ下げだろうか?

あるいはアナログのディレイ処理の過程で得られる変化だろうか? 例えば、磁気テープのレコーダの、録音ヘッドとモニタヘッドが別々で、数センチメートル離れて配置されてて、録音したものを直後にモニタし、録音プロセスにフィードバックする、という場合、元の音とそのディレイ音とが全く同じ音質とゆかず、周波数特性の「くせ」があり、プロセスを繰り返すほどにその方向に偏ってゆくことを、欠点と見做さず逆に方法として積極的に取り入れる、という場面も、もしかしたら含まれるだろうか?

 

たしかに、機材固有の、鳴らされる環境・条件によって、何かが共振したり、歪みが生じたり、ということはあるだろう。でも改めて考えるに、それらだって、「新たに加わってる要素」なのか「素材の持つ要素の抽出」なのか、区別は難しいのではないか?

 

もし、音の出来事を総体としてあるがままに聴くことが出来る人がいたら、数分目で「ヒトの声」の中の特定の要素が「楽音」として聴こえ始めた時、こんな説明がましいことしてくれなくても私には最初から聴こえてたよ、と思うだろう。

 

ソナタ形式なり変奏曲形式なり、「最初に提示される主題の中に萌芽が含まれ、それが展開処理される」のが音楽の在り方の伝統だとすれば、この曲の「展開・進行」の「形式」は、それに忠実で、最も純粋で最も徹底的な例、といえるのではないか。

違うのは、変化が「連続的」であることと、展開される要素が記譜レヴェルではないこと。

 

ふと思うに、いっぱんにエフェクターって、音の素材を「変化」させるものではあるけど、それを外から何かを新たに「加える」ことによって為すよりは、素材がもともと持ってたどの要素をどう引き出すか、なんじゃないか。