「トロッコ問題」への私の解は出てる。私は「1人を殺す」。
この問題のキモは「責任を引き受けること」だと思ってる。
ポイントを切り替えないと5人が死ぬ。切り替えると1人が死ぬ。
「切り替える」とそこにわたしの積極的な責任が生じて、「1人が死ぬ」が「私が1人を殺す」になる、と思いがちだけど、じつは「切り替えない」も積極的な選択であって、「切り替えない」ことによって私は私の責任において積極的に「5人を殺す」のだ。
なら迷う余地はない。
私は積極的に1人を殺します。
もし設定が逆で、
「切り替えなければ1人、切り替えれば5人」
だったら、「切り替えない」ことへの躊躇は小さくなる筈。でもじつは、
「切り替えなければ5人、切り替えれば1人」において後者を選ぶこと
と、
「切り替えなければ1人、切り替えれば5人」において前者を選ぶこと
とは、同じことなのだ。
どの命を優先すべきかを私が決めることは「倫理」が許さない、などというつもりはない。私は明確に、「この世には殺してはいけない人と殺してもよい人と殺さねばならない人とがいる」と思ってるし、誰を生かし誰を殺すかを私が決めたいと思ってる。
でも「トロッコ問題」においては、「5人」「1人」という人数だけ示がされてて、これで判断しろというのだから、「1人を殺す」以外の解は無い。
なぜ数が重要か。数はいのちの戦略だからだ。救う人数を多くすることこそがいのちへの「責任」だ。
私は人を個人として見るし、個人の尊厳こそ大事だ。でも同時に、1人の人はその人1人で完結するものではなくて、横に同時代のヒトビトと関係し合い影響し合い、縦に過去を引き受け未来に受け渡す。
1人を救うことはそこに連なる未来を救うことだ。仮にその1人が「個」としてロクでもなくとも、彼を殺すことによって未来のロクでもあるものを殺すことになる。
5+1=6人の「個」としての価値を判断する材料は提供されてない。でもそこに連なる多くの「個」の中には必ず殺してはならない者がいる。
結論として、どちらを選ぶかの基準を人数に置く以外ないし、救う人数を多くすることはすなわちいのちの繋がりとしての「ヒトビト」の可能性を確保することだし、その先はきっと「多様性」に向かって開かれてる。
この下書きを書き上げられずにいた理由は、言いたいことが多岐に亘り膨大になり、レトリック癖ギャグかまし癖も発動して収拾つかなくなったから。
なので今回、話をポイントだけに絞って、いくつかのモデュール、例えば冒頭の書き出し
《「トロッコ問題」を私は、「ビバリーヒルズ高校白書」「ビバリーヒルズ青春白書」と続いた青春テレビドラマシリーズの第3弾として NHK で放映された「ハーバード白熱教室」でマイケル・サンデルが取り上げてて知ったが、オリジナルはフィリッパ・フットが1967年に提唱したものらしい。》
をカットした。
追記(2024年04月14日)始め
この記事を書き始める時、自分の過去ツイをひとつ参照するためにツイッター検索したのだが、ワードをどう工夫しても出なかった。
今、ふとした弾みに、それが出て来た:
切り替えなければ責任が生じない、わけではない。
— 新海智子 (@coccyx_T) 2020年7月19日
切り替えないという選択をすることで、「私が」「積極的に」5人を殺す、ということ。
切り替えます。 https://t.co/h8eQ0NpJVy
ある方の、トロッコ問題についての御ツイを引用 RT したものだけど、元ツイが削除されてる。
記事は、このツイ内容を言い洩らしなく拾えてる、ということを確認できた。
追記終わり