白飯がβ化してる。室温で。
図らずも俳句になった。
「季語が入ってないから俳句じゃない」と指摘されそう。でも、そここそがまさに、私が「季語という発想つまらない」と思う所以なんだ。
上掲の俳句は、季節を表わし得てる。上出来ではないけど。
というかそもそも、冷蔵庫保存したのではない、テーブルに放置したお弁当の白飯がポロポロになってる、のを発見し感動しての一句だ。
「季節を清新に発見し言い当てる」ことを「季語を使う」ことが阻害する場面を多く見掛けるじゃないか。約束事に沿いその力を借りて何かを言ったつもりになる、という態度は、創造から、文学から、凡そ最も遠い。
「その手もある」というならまだしも、「それを必須とする」のが何故なのか、私は判ってない。
で、ふと思い出した。中学3年生の国語の時間にクラス全員の句集を作った。私の一句は
太陽も朝寝坊
だった。季語を使わずに、晩秋、日の出の時刻が遅くなった時期であることを言い当てる試みだった。上出来ではないけど。
ちなみに、自宅にあった『昭和俳句集』的なアンソロジー*1の中に
咳をしても一人
を見つけて、自由律俳句かっけええ、ってなってた時だった。といっても、この句の作者を種田山頭火だと思ってた程度の教養だけど。
立ち合いは強く当たって真白にぞあとは流れでお願いします
*1:追記
あ、でも尾崎放哉は大正15年に亡くなってるな。