ミー子

ぉぁああおうぅぅ

線は何を描くのか

白い紙に、幅 0.3mm なり 0.5mm なりの黒い線で、スケッチをする。

 

線は何を描くのか。5つくらいの場合がありそう。

① 現実に線の形で見えてるものを、線で写し取る。ヒトの髪の毛とか。

② 現実に、明度や色相の異なる面が隣り合ってて、その境界がくっきりしてる場合、これを線で描く。

③ とくに「何を描いてるのか」の対象が明確に意識されてる場合、これと、これに隣り合うエリアとの境目を線で描く。これは②と似てるようで根本的に違う。これは対象物の「輪郭線」であって、「隣り合うエリア」は「背景」として処理されるか、無視される。

④ 「紙の白をそのまま残す=明度最大」と「ベタで塗り潰す=明度最小」との間のグラデーションを、たくさんの線を平行させたり、これを違う角度で交差させて網目にしたりして描く。線の粗密すなわち明度の大小で、実際には「線の集まり=明度最大と明度最小の入れ代わり立ち代わり」なんだけどこれを「のっぺりと連続的な面」として見せる。つまりハッチング(クロスハッチ)。

⑤ 線自体が、太さや濃淡を変化させたり、かすれたりして「質感」をもつ。これを現実に見えてるものの質感を写し取ることに使う。

 

一枚の絵の中に、線が担わされた役割が複数混在してるのに、ふだん絵を見る時、我々がこれに困惑しないのが何故なのか、私は説明できない。

たぶん「何を描いてるのか」が先にあって、対象物をそれらしく写生する目的のために上記①~⑤が適宜動員される、という順序であって、線の役割をそれ自体として純粋に突き詰めるという方向じゃないんだろう。だから③がメインで、他は補助、といえるかも知れない。

見る側もこの約束事を共有してるあいだは困惑せずに済むんだけど、「見る」ことを徹底し出したら、例えばハッチングが面じゃなくて線の集まりの粗密に見えだしたら、もう「写生」には見えない。

描くことは、そういう「見る」ことの「粗さ」に依拠してて、視覚を「欺く」ことで成り立ってる。

 

色と光についても、これは私のスマホカメラでの動画撮影の話になって恐縮だけど、肉眼で、風景の中にハッとする美を見つけた時、それはたいていの場合色そのもの、光そのものの振る舞いで、「何を撮ってるのか」はどうでもよかったりする。

ところがこれを動画に収めて再生すると、「それが何であるのか」が克明に写ってしまって、見ていたものが見えなくなる。

 

絵描きさんの中には、「線や色や光がそれ自体としてある」ことと「それが何かを指し示す」こととを往還する、「見ることの精度上げ」と「概念」とのトレードオフの各段階を意識させる方というのがいらっしゃる。

スケッチで、人物の輪郭と見える線が辿ってゆくと途中から別の意味をもってたり、何を意味するのか曖昧になってたり。線が突き詰められて、スケッチというより簡潔なコンポジションに還元されてたり。

この記事は、ツイッターで拝見したある方の絵画作品がきっかけになってるんだけど、そのお作に即するより、そこから勝手に思い巡らしたあれこれになってしまったので、お名前は挙げない。

より正直にいうと、畏れ多くて、その方のお名前をお呼びするのは、せいぜい、夢日記の記事で、夢の中にその方が登場した、という時くらい。

ただ、その方の、技法もモティーフも多岐に亘り、印象もまちまちないくつかのお作が、上記の点で一貫してる、といえるのかも知れないと思った。