ミー子

ぉぁああおうぅぅ

エルメート・パスコアールをめぐってメモ

ある方にエルメート・パスコアールについての記事をご紹介頂いた中に、これが貼られてた。昔ピグの音楽フロアでどなたかがお掛けになったことがある:

こちらの御記事:

 

「エルメート・パスコアールは子供の頃から

人の話し声が、まるで歌っているように聞こえたといいます」

 

「音をSEとしてつかう普通のフィールドレコーディングとは異なる思想に基づく」「

「音符」をあつめる」

 

ここで最大に気を付けねばならないことがある。

音を、まずニュートラルにそのものとして、捉えうる耳をもつ、ということがキモなのだ。

もし「物音を『音符』に落とし込むことが音楽的で価値のあること」と捉えていらっしゃるのなら、それは非常に危うい*1。それは逆に音を人の料簡に押し込むこと、そのせいで捨象されるものの大きさよ。

音そのもの、音トータルのありよう、それを「言語として聴く」にせよ、「メロディとして聴く」にせよ、そうすることで、それ以外の要素が聴こえなくなる。

パスコアールは物音を「音符に還元可能なもの」としての「音楽」として聴いてた、というのではなく、まずもって音を「すべての様相において、まるごと」聴いてたのではないか。だからそれを音楽として示すこと「も」出来たのではないか。

 

これは、もうひとりの友人から教わった:

音楽を「根本から」捉えてる、だから「広い」。

うっかりすると、ふつう「主流の音楽」とされてるものの傍らにあるもの、「色物」、と見做されそうでじつはその全く逆、彼の示す「広い」音楽の内にそれら「ふつうの楽器による音楽」も含まれる。

(声による「歌」の部分での、音高の正確さ(絶対的な高さも、音相互の「音程」も)だけでも、彼が「本物の音楽家」であることは明白ではある。)

 

エルメート・パスコアール。

複雑を極めつつ、自然で明るい。

「造形に真摯であろうとするほど『ユーモア』に近づく」ということはあると思うけど、彼の場合、「探求」ということもあるだろうけどそれよりももっと「湧いて来てしまってしょうがない」ようにも聴こえる。

私自身は、パスコアールの名前だけは「ユーロ・ロック・プレス」で(ジスモンチとともに)見てて、つまりプログレの文脈でずっと気になってた。今回いろいろ教えて頂き、聴き進めるための道筋も付けて頂いて、ありがとうございます。

 

関連記事:

あと、たまたま「去年の今日の記事」としてサジェストされて来て気付いたけど、じつは過去いちど「Hermeto Pascoal」に言及してる:

「Grupo Um 結成に先立って彼らは Hermeto Pascoal のバンドに加わってた」

*1:あと「フィールドレコーディング」が「音をSEとしてつかう」というのも誤ったご認識だと思う。御記事は全体として非常に有難いものなのですけれど。