ミー子

ぉぁああおうぅぅ

夢 2023年12月01日

雑多な夢のワン・シーン。

 

係の女性がロビーに現れ、私に「この書類に記入して下さい」と声を掛けながらこちらに歩いて来る。

(私は手許にあった1枚の用紙を持ち出すが、それは別件だった。)

手続きの説明を聞くうちに判ってゆくのだが、私がある公募の美術展に提出したタブローが「入選」し、展示されるところまでは決まってて、このあと「入賞」のための審査がある、それに必要な数枚の書類だった。

中の1枚は費用を収めるためのもので、金額は¥80,000、今の私には余裕で支払える金額。

この公募展には前回以来、灰街令氏が入選なさってる。今回氏に私を認識して頂けるかも知れない、と思う。

今回提出した1点はオレンジ色~煉瓦色が基調。今次の1点を制作中で、完成間近まで来てる。こっちはライトブルーが加わってる。

本気モードに入らなきゃな、と思う。

 

昨日ツイッターで灰街令氏の絵を拝見したことが影響してる。

ちなみに現実には私は絵をまったく描けない。

昨日の記事で「畏れ多くて、その方のお名前をお呼びするのは、せいぜい、夢日記の記事で、夢の中にその方が登場した、という時くらい」と書いた、その直後にこの夢を見て、私って素直だな、と思う。

線は何を描くのか

白い紙に、幅 0.3mm なり 0.5mm なりの黒い線で、スケッチをする。

 

線は何を描くのか。5つくらいの場合がありそう。

① 現実に線の形で見えてるものを、線で写し取る。ヒトの髪の毛とか。

② 現実に、明度や色相の異なる面が隣り合ってて、その境界がくっきりしてる場合、これを線で描く。

③ とくに「何を描いてるのか」の対象が明確に意識されてる場合、これと、これに隣り合うエリアとの境目を線で描く。これは②と似てるようで根本的に違う。これは対象物の「輪郭線」であって、「隣り合うエリア」は「背景」として処理されるか、無視される。

④ 「紙の白をそのまま残す=明度最大」と「ベタで塗り潰す=明度最小」との間のグラデーションを、たくさんの線を平行させたり、これを違う角度で交差させて網目にしたりして描く。線の粗密すなわち明度の大小で、実際には「線の集まり=明度最大と明度最小の入れ代わり立ち代わり」なんだけどこれを「のっぺりと連続的な面」として見せる。つまりハッチング(クロスハッチ)。

⑤ 線自体が、太さや濃淡を変化させたり、かすれたりして「質感」をもつ。これを現実に見えてるものの質感を写し取ることに使う。

 

一枚の絵の中に、線が担わされた役割が複数混在してるのに、ふだん絵を見る時、我々がこれに困惑しないのが何故なのか、私は説明できない。

たぶん「何を描いてるのか」が先にあって、対象物をそれらしく写生する目的のために上記①~⑤が適宜動員される、という順序であって、線の役割をそれ自体として純粋に突き詰めるという方向じゃないんだろう。だから③がメインで、他は補助、といえるかも知れない。

見る側もこの約束事を共有してるあいだは困惑せずに済むんだけど、「見る」ことを徹底し出したら、例えばハッチングが面じゃなくて線の集まりの粗密に見えだしたら、もう「写生」には見えない。

描くことは、そういう「見る」ことの「粗さ」に依拠してて、視覚を「欺く」ことで成り立ってる。

 

色と光についても、これは私のスマホカメラでの動画撮影の話になって恐縮だけど、肉眼で、風景の中にハッとする美を見つけた時、それはたいていの場合色そのもの、光そのものの振る舞いで、「何を撮ってるのか」はどうでもよかったりする。

ところがこれを動画に収めて再生すると、「それが何であるのか」が克明に写ってしまって、見ていたものが見えなくなる。

 

絵描きさんの中には、「線や色や光がそれ自体としてある」ことと「それが何かを指し示す」こととを往還する、「見ることの精度上げ」と「概念」とのトレードオフの各段階を意識させる方というのがいらっしゃる。

スケッチで、人物の輪郭と見える線が辿ってゆくと途中から別の意味をもってたり、何を意味するのか曖昧になってたり。線が突き詰められて、スケッチというより簡潔なコンポジションに還元されてたり。

この記事は、ツイッターで拝見したある方の絵画作品がきっかけになってるんだけど、そのお作に即するより、そこから勝手に思い巡らしたあれこれになってしまったので、お名前は挙げない。

より正直にいうと、畏れ多くて、その方のお名前をお呼びするのは、せいぜい、夢日記の記事で、夢の中にその方が登場した、という時くらい。

ただ、その方の、技法もモティーフも多岐に亘り、印象もまちまちないくつかのお作が、上記の点で一貫してる、といえるのかも知れないと思った。

俳句(あと短歌)

白飯がβ化してる。室温で。

 

図らずも俳句になった。

「季語が入ってないから俳句じゃない」と指摘されそう。でも、そここそがまさに、私が「季語という発想つまらない」と思う所以なんだ。

上掲の俳句は、季節を表わし得てる。上出来ではないけど。

というかそもそも、冷蔵庫保存したのではない、テーブルに放置したお弁当の白飯がポロポロになってる、のを発見し感動しての一句だ。

「季節を清新に発見し言い当てる」ことを「季語を使う」ことが阻害する場面を多く見掛けるじゃないか。約束事に沿いその力を借りて何かを言ったつもりになる、という態度は、創造から、文学から、凡そ最も遠い。

「その手もある」というならまだしも、「それを必須とする」のが何故なのか、私は判ってない。

 

で、ふと思い出した。中学3年生の国語の時間にクラス全員の句集を作った。私の一句は

太陽も朝寝坊

だった。季語を使わずに、晩秋、日の出の時刻が遅くなった時期であることを言い当てる試みだった。上出来ではないけど。

ちなみに、自宅にあった『昭和俳句集』的なアンソロジー*1の中に

咳をしても一人

を見つけて、自由律俳句かっけええ、ってなってた時だった。といっても、この句の作者を種田山頭火だと思ってた程度の教養だけど。

 

立ち合いは強く当たって真白にぞあとは流れでお願いします

*1:追記

あ、でも尾崎放哉は大正15年に亡くなってるな。

National Health 'The Collapso'

私がこの曲を好きなのは、作曲・アレンジし尽くされた音楽だから。

私がカンタベリーの「ジャズ・ロック」を苦手なことには今まで何度か触れたけど、それはつまり「演奏」優先で「作曲・造形」が蔑ろにされてると感じる場面が多いから。

この曲は精緻な「工芸作品」、指物か、寄せ木細工の仲間だ。私の National Health は、Dave Stewart 作曲のこの1曲に尽きる。

 

曲全体としてはコンディミに拠ってる場面が多い中で、主題提示部が「浮いてる」。

すなわち、0'14" からダイアトニックになって、主題の提示は 0'33"。

ずっこけちゃうくらいあっけらかんと判りやすいメロ。それは、①冒頭「dis」= H の「ミ」の同じ高さの音が3つ、最も単純な4分音符(最初の2つはスタカーティシモ)の符割で、「ミ、ミ、ミー」と連続すること、②完全にペンタトニックに拠ってること、③これをギターの単音で、(Phil Miller 固有ではあっても)素直な音色で、やってること、による。メロのモードは、

H のペンタトニック→ Fis のペンタトニック→

B のペンタトニック→ F のペンタトニック→

A のペンタトニック→ E のペンタトニック*1

と、キーは移り変わっても、そのそれぞれの上のペンタトニックで貫かれる。

主題自体は身も蓋も無くとも、この曲のキモは、その「処理」にある。

2'09" で再登場する時にはコンディミになってる。しかも出だしの「ミ、ミ、ミーレミーソー」の音形はそのままの音程関係で活かされてて、つまり主題の設定のしかたがもともと巧みだったということになる。

2'27" ではメロ自体はペンタトニックだが、コード付けがよく判らないことになってる。

3'29" ではリディアン・モード、といっていいのかな。

5'04" で 0'14" のダイアトニックが戻って来て(ここはベース・ソロの尺に充てられてる)、5'33" で 0'33" そのままの主題の再現。

 

4'55" の、曲全体の中でも最もモニュメンタルに聳え立つ瞬間、「ミーレミソーラ」も、もしかすると主題由来?

1'24" のモティーフは、4'36" で再登場するけど、これをことさら「第2主題」と呼ぶべきかどうか。

3'01" や 3'43" のモティーフは、魅力的な造形だけど、ストラヴィンスキーか何かの中に引用元を指摘出来たりするのだろうか?

 

この精緻な曲を、いくつかの例外箇所(後述)を除いて、寸分違わぬアレンジで、ライヴで再現してしまう。

2'10"、スタジオ ver. の 1'11" のオルガンのフィルイン「タカタタータッ」のユーモアが好きなのだけど、ライヴではやってない。この箇所で右手が音色の切り替えに動いてるので、仕方ない。

3'49"、John Greaves が出を1拍間違ってる(スタジオ ver. の 2'51")。

6'30" からの主題の再現の途中で Phil Miller が落っこちるのは、Greaves の暴走に惑わされてのことだろうか?

にしてもここ、Greaves にいったい何が起きてるのか? 尺を超えてソロを続けてしまったのか? 音色の切り替えに手間取ってるし、そのあと弾けてない。アクションの派手さでごまかしてる。

ここでのフロントマンは明らかに Greaves なので、彼に自由にやらせて、派手に振る舞わせるのは、演出として正解ではあるのだよな。

Greaves が落っこち Miller が落っこちても、曲は滞りなく進行する。Stewart のオルガンが曲の構造と音響体を堅実に作ってる音楽で良かったね案件、ということになるのかな。

*1:

コード進行でいうと、英語名で

B  G♯m  F♯  D♯m

B♭  Gm  F  Dm

A  F♯m  E  C♯m

つまり半音ずつ下がってゆく。例えば D♯m は B の「ⅲ」だが、これをⅳと読み替え、そのⅠである B♭に進むことでそうしてる。スムーズな転調。

「初心を取り戻す」ために聴くもの

「初心を取り戻す」ために聴くのは、これとか。

ラヴェルマ・メール・ロア組曲管弦楽版から、第1曲「眠りの森の美女のパヴァーヌ

カルロ・マリア・ジュリーニバイエルン放送交響楽団

ジュリーニ指揮のこの曲は今までに、ロサンジェルス・フィルハーモニックとのものと、フィルハーモニア管弦楽団とのものを聴いた。記憶との比較になっちゃうけど、いずれもに共通する特徴があると思う。遅めのテンポで丁寧に、静寂を水準線とするようなひそやかさで、曲を正しく形にする。

 

これとか。

Egg "The Polite Force" から 'Contrasong'

ロックで最初にコンディミを使った曲が誰の何か知らない(それがジャズ由来なのかメシアン由来なのか、独自の獲得なのか)。これは1971年、かなり早い例じゃないのかな?

3'43" の和音3つの連鎖が、ドビュッシー「ヴァイオリンとピアノのソナタ」第2楽章の第14小節と第16小節のピアノ・パートを思い出させる。

これの 5'14":

演奏はシュロモ・ミンツ(vn)とイェフィム・ブロンフマン(pf)。この演奏家たちを聴くのは初めての筈。演奏内容についてここで評価はしません。譜面付きなので選びました。

 

これとか。

Japan "Tin Drum" から 'The Art Of Parties'

「2'25" のハンド・クラップは、サビ前のこの位置に入るのはここだけで、0'42" と 1'42" には入らない」ということと、「奇数拍目の3拍目だ」ということに、改めて気付く。

「3回のサビ入りを全部同じにしない、3回目に少しだけ音数を増やす」というのは正しい判断だとして、「2拍目」はブレイクで、ここに入れるのはあり得ないし、「4拍目」にしたら次の小節の2拍目と近過ぎる。

元来この曲のハンド・クラップは、サビの各小節の「2拍目」だけで、「4拍目」には打たれない。もしサビ前の4拍目に置かれたら、サビ第1小節2拍目のと連続し関連し、「偶数拍ごとに打たれるビート」みが出てしまう。

囲碁の布石みたいなものだろうか?

 

最近ツイッターで「たまにはこーゆーの聴いて初心🔰を取り戻さんと、、、」という文言をお見掛けした。

その方は音楽について、録音物について、オーディオについて、どマイナーどニッチに至るまで凡そご存じないことが無いような方で、直近では1966年のフリー・ジャズ界におけるヤキ・リーベツァイトとマニ・ノイマイヤーについて、あるいはチャールズ・ヘイワード参加盤のあれこれについて、ツイートなさってたような方。その方が「初心を取り戻す」ためとお挙げになってたのは Alternative TV "The Image Has Cracked" のアナログ盤だった。

私にとっての「初心を取り戻す」ために聴くものとは、造形の絶妙が象徴の力で彼方を指し示すようなものたち。私を音楽の奥義へと誘ったものたち。

で、思うに、「取り戻す」も何も、今の私も「初心」のままなのだった。

'Your Mother Should Know'、'I Am the Walrus'

赤盤は聴いた、というと、青盤も良いんですよ、といわれた。

いや中後期はそれぞれのアルバムで聴いたから。

 

青盤(オリジナル)の収録曲を今改めて認識した。私が埋め草と見做してる曲もけっこう入ってるな。

「発売当初、ジョージ・ハリスンが選曲を行ったとアナウンスされたが、実際は当時のビートルズのマネージャーであるアラン・クレインが手掛けている」(ウィキペディアザ・ビートルズ1967年~1970年」)

 

まあ私が選曲したら、マッカートニー曲は

Getting Better

Magical Mystery Tour

Your Mother Should Know

Wild Honey Pie

Helter Skelter

I've Got A Feeling

だけになっちゃうけど。

 

なかで 'Your Mother Should Know' については、私個人の、この曲との再邂逅の体験で印象づけられてて、やや不純な選曲動機なのだけど。

むかし武蔵小山のジョナサンの店内でずっとビートルズ・ナンバーを流してた。有線だろうか?

その時私は 'Tomorrow Never Knows' が掛かるのを待ってた。そこに 'Your Mother Should Know' が掛かった。泣けた。この曲で自分が泣くなんて思いもよらなかった。

この曲のどこに泣けたかというと、メロの造形と曲構成の簡潔と的確に。こういう機会に聴くことでそこに気付く、ということが起きるみたい。

'Strawberry Fields Forever' も掛かったけど、こういう場で流すのには全く不向きだった。ディテイルの音楽だし、ダイナミック・レンジが広い。アレンジの細部や、弱奏の箇所が、場のノイズに埋もれてしまう。

 

青盤 2023 mix は全然聴いてない。ただ 'I Am the Walrus' について「狂ってる」という評をたまたま見掛けたので気になって聴いてみた。

コーダの音量バランスwwwww*1

コーダのコーラスが斎太郎節の影響である説(レノンが来日時にホテルで聴いて気に入った説)は、星加ルミ子の談話が根拠らしいのだけど、事実関係を詰めると、不確定な、あるいは時系列と食い違う点があるらしい。

でも、じゃあ、もし斎太郎節の影響じゃないとしたら、いったいどこからあんな斬新な楽想思い付くのか、謎が残る。

*1:追記 2024年02月07日

何が「wwwww」なのか、具体的に書くべきでした。

コーダでの、ラジオの音声的なトラックが、まるで新たに加えられたものみたいで、びっくりしたのでした。たしかに「狂ってる」と。

もともとあったトラックを前面に出して来たのでしょうが、従来の、例えば2009年リマスターではこれを効果音として、ないしノイズ成分として使うふうだったのが、この2023年ミックスでは「これ自体がパート」みたいな扱いに変わってて。

Magical Power Mako "Welcome To The Earth" についての、先輩の思い出話。

Magical Power Mako の 4th. アルバム "Welcome To The Earth"(Eastworld (Toshiba EMI)、1981年)。

最初の曲(00'00" ~ 01'57")が 'Welcome To The Earth (Intro)'、

最後の曲(29'10" ~ 34'52")が 'Welcome To The Earth'。

(この動画には Magical Power Mako 氏ご本人がコメントをお寄せになっています。)

 

私に Magical Power Mako を教えて下さった方のオーラル・ヒストリー。

以下。

 

そもそも最初に Magical Power Mako を知ったのは、KBS 京都の音楽番組「Pops In Picture」で。おそらく1976年、中学生の時、Magical Power Mako 特集の回があり、本人とのインタヴューに、今まで思いもよらなかった世界を垣間見た。たんに音楽制作の現場として斬新というだけでなく、なにか俗世間から隔絶したコミュニティが音楽を産む前提としてあるみたいだった(視る側の私の妄想込みでの話だけど)。速攻、当時の最新盤、2nd. アルバム "Super Record" を入手した。

その後情報に接することが無く*1、ようやく1981年頃に、ある TV コマーシャルの音楽がプログレで、耳を惹いた。クレディットが出て「音楽:マジカル・パワー・マコ」と。シンセを多用した近未来的なサウンドと、曲調の荘厳さに、さすが!となった。

ややあって FM で新譜が紹介された。纏まった曲数が掛かった。全曲掛かったのかも知れない。とにかく1曲目が件の曲だった。アルペジオ的なパートに、ブラス系のファンファーレ的なパートが乗っかってくるあたり*2。ただ、CM で聴いてたのと印象が違った気もして、全く同じヴァージョンかどうかは判らなかった。当時の TV はオーディオ的にはちゃちだったから、というのもある。オープニングとエンディングのタイトル曲が私の期待を満たしたが、この2曲はアルバム全体の中では異色ではある。

件の CM が何の CM だったのかは憶えてない。ロケットのローンチの絵だった気もするけど記憶の捏造かも知れない。

 

もうひとつ、同時期に TV で視て印象に残ってるものとして、長谷川集平を取材したドキュメンタリー番組がある。絵本作家を何人か取り上げた中の1人だった。他には谷内こうたがいた気がする。

長谷川がバンド仲間と2人でドンカマに合わせてギターを弾くシーンがあった。琉球音階で即興してた。ギターの、過剰なエフェクトによる音色づくりが、Magical Power Mako を思い出させた。

私は絵本『はせがわくんきらいや』で彼に興味をもって、その絵本作家長谷川が音楽をやってるのが、意外だったし、好感をもった。

 

以上。

*1:1977年に 3rd. アルバム "Jump" が出てる筈なのですが。

*2:0'52" 以降ですね。