いま「カニ肉でカニカマを作る」というのを思い付いたんだけど、これ音楽に応用すると何だろうな。
尺八と同じ奏法を使えるウィンドコントローラで尺八の波形を鳴らす、みたいな?
これは案外「電力発電」的ナンセンスとばかり片せない発想な気がして来た。
クリーンなエネルギー源を求めて、「そうだ! それは電気だ!」と思い付き、電気を使って電気を作る。この場合は、インプットとしての電気とアウトプットとしての電気は質的に同じ物だ。
「音楽で音楽を作る」ないし「音楽肉で音楽カマを作る」の場合は、そこにインプットとアウトプットとの間の「次元差」を問うことが可能だ。
がんらい音楽はカニカマである。カニカマにおいては「原料に何の肉を使うか」は問題ではない。「プロセス」そのものがカニカマなのだ。
とすれば、音楽における「カニ肉を使ったカニカマ」とは何か? 高みから齎される「音楽のオリジナル」をまず想定すること?
オリジナルをオリジナルのまま享受することはドゥイノの悲歌のリルケが許さないので、いったんばらして分析しつくして「人為」「意識」のプロセスを通過させて、再構成することで音楽がヒトのものになる。
そこに積極的に価値を認める。アウトプットは、オリジナルとは似て非なる、ヒトの料簡に翻訳されたオブジェ、ガジェット、抜け殻、だけど。
「スギヨ」に掛かる枕詞は「カニカマの」なのか。わたし的には「加賀揚の」なんだけど。
近所のスーパーに加賀揚無い。スギヨの HP で商品情報見ると販売地域を殊更書いてない、ということは岡山でも探せば見つかる筈だけど。
岡山市に移って、食に関するカルチャーショックは様々あるけど(すあまが無い!とか)、いちばん意表を突かれたのは、スーパーのお惣菜で焼きそばを買った時、そこに当たり前のようにかつぶしが掛かってたことだった。
思い当たるのは、当地で「お好み焼き」と称されるものに、具として必ず焼きそばが入ってる、ということ。
かつぶしを、お好み焼きに掛けることは、すなわちその具である焼きそばに掛けることにもなる。このことが、「単品の焼きそばにかつぶしは相応しいか?」を問うプロセスを欠落させるのではないか。
プログレ曲の中でアコギのアルペジオに出会って美しいと思うと、これがプログレ性を保証する要素としてカウントされてしまい、次にフォーク曲の中でアコギのアルペジオに出会った時、プログレ!と思ってしまう、みたいなことか。
私たちは、レスリースピーカすなわちハモンドオルガンのためのもの、という考えに囚われているが、音源のモデュールとアタッチメントのモデュールは自由に組み合わせればよいのであって、岡山市民なら、ハモンドにディストーションを掛けるかも知れないし、逆にピアノの音をレスリースピーカに通すかも知れない。