採譜と演奏:新海
このイントロのわたし的キモは、第13-16小節、つべでいって 0'36"~ 0'46" の、4つの和音の連鎖。
私はコードネームを知らないのだけど、
1つ目が「Bm7 に長6度が乗ったの」、
2つ目が「AmMaj7 に長6度が乗ったの」、
3つ目が「C♯m6 の第4転回」、
4つ目が「G♯m」
で、この4つの和音は「gis」を共通に持つ。
① gis の持続の上で、
② それぞれ性格の違う4つのコード、
③ ベースの動きは転調的、
④ なのにソプラノは gis → fis → e → dis と順次にモーダルに下行、
の4つの組み合わせなのだ。
続く箇所、第17-18小節は「右手だけ取るとホールトーンになる短調」。単純な動きのパーツを組み合わせて微妙さや怪奇さの響きを得てる感、説き尽くせなさ。
この曲が嬰ヘ長調なのは作曲上の必然だろうけど、演奏上、キーボードの運指的に弾きやすい調ではある。
一般に、ある調で書いた曲を、別の調に移調すると、性格がガラッと変わる。
この曲の嬰ヘ長調を例えばト長調に移調したら、別曲になってしまう。ただ、この曲の場合、そういう一般的な話と別に、使ったメロトロンが固有の音程の「癖」をもってた、という事情があったようだ。そのせいで、もし移調すると響きが別物になってしまう。
原調でのニュアンスが、移調によって無くなる。あるいはそもそも作曲の最初の段階で、「癖」に誘発されて着想が生まれる、ということもあり得る。
私は Genesis の各曲の調性をいちいち知らない。たまたま、'The Musical Box' も嬰ヘ長調なのは知ってる。でもこの曲はもともと Mike Rutherford と Anthony Phillips によるインスト曲で、その名も 'F♯' だった。つまりTony Banks のキーボードの運指の都合とは関係がない。
作曲上の必然が調を決める。作曲者が各調性にそれぞれの性格を感じてるとか、「この調で聴こえて来たんだからしょうがないでしょ」とか。
その必然は、一般に共有されてる感覚もある程度あるだろうし、どこまでも作曲者パーソナルなものもあるだろう。
曲の「色調」を大切にする作曲家は移調を受け付けないし、和声の機能が実現されてれば何調でも同じという作曲家もいるだろう。
難しいのは、体系の中で相対的に、たとえばハ長調とニ長調の差、というもののほかに、絶対的な高さでいうと同じハ長調の曲でも違って聴こえる場合がある、というところ。
これは私個人の特殊なケースだけど、1年間完全に音楽から離れた時期があって、戻って来てみると、私の思うハ長調が、現実のハ長調よりも半音低い、世の中の聴き馴染んだ筈の曲が悉く調子外れに聴こえる、という事態に陥ってた。
もともと絶対音感には自信があったのだけど、その時以来、私の中には2つの基準が併存する。狂ってしまった感覚を矯正するというのではなく。片方には昔から私の中で引き継いできた感覚の体系が厳然とあり、もう片方には「現実」が厳然とある。
私の感覚が、絶対どころか、如何に当てにならないか、というより如何に社会的に規定されてるか。
世の中で鳴ってる音楽に触れつつ、それを「基準」に、「感覚」を無意識裡に常に微調整し保持するもの、それが絶対音感、ということ。
世の中の音をシャットアウトした環境とはつまり、ズレをチェックできない、「感覚」と「基準」とが諸共に沈下することが起こりうる環境、ということだと悟った。
標準ピッチは歴史的に、時代が下るにつれて高くなっていった。
バロック時代の「ホ長調」と現代の「ホ長調」とは明らかに表情が違う。
でもいっぽうで、調性の体系全体の中での位置づけ、その中で負わされた「ホ長調の性格」というものがあって、そっちは時代を超えて引き継がれてる筈。
私個人の例と同様に、「感覚」と「基準」とが諸共に動いてゆく、ということが歴史的に起きたわけだ。
あと、薬の副作用でピッチが下がって聴こえる、ということが問題になることがある。
そうなると、各調性の性格の根拠をどこに求めたらよいのか判らなくなる。
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