ミー子

ぉぁああおうぅぅ

短調は悲しい

roach11 氏がツイッターで「短調はなぜ人を悲しくさせるかの仮説」として3つの仮説をお立てになっているのを拝見して、私も考えてみた。

短調そのものの性質以外の、社会で慣習的に形作られたもの、それを後天的に刷り込まれるもの、という要素が大きいのだろうと思う。

 

でもここでは、音そのものに即してだけ書いてみる。

長3度と短3度はどこが違うのかについて、3つの見方があると思う。

① 長3度は「5度圏」、短3度は「4度圏」

②「周波数の比」が、長3度は 4:5、短3度は 5:6

③「インターヴァル」の半音の差

 

長調は自然、短調は人為

《① 長3度は「5度圏」、短3度は「4度圏」》について。

音を完全5度で積み上げてゆくと、

c - g - d - a - e - h - fis...

と、どこまでも協和して開放的な響き。

完全4度で積み上げると、

c - f - b - es - as...

と、途端に不協和で閉塞的な響きになる。

長調短調かを決めるのは音階の第3音と第6音の高さだけど、

長調のミ♮、ラ♮は5度圏の音、

短調のミ♭、ラ♭は4度圏の音。

長調は明るい、短調は暗い、というのはつまり、長調は開放的、短調は閉塞的、ということ。

じつは私自身は、「長調短調」の「明るい/暗い」をヒトの感情の「楽しい/悲しい」に当てはめるのに抵抗があるのだけど、「気が晴れる/気が塞ぐ」だと考えるとピンと来る。

長調については和声を体系づけられる。それをそのまま平行に短調に当てはめられるのではない。

長調の和声は、音の物理現象としての「協和」を基本に据えて、これにわりと素直に沿って成り立つ。短調の場合は、各所で人為による辻褄合わせが必要になる。

G7 なり Csus4 なりのファが C のミに進むと解決と感じるが、Cm の、4度圏の音であるミ♭に進んでもいっこう解決と聴こえず、だからピカルディ終止で「辻褄を合わせる」。

私がこれを辻褄合わせと呼ぶのは、短調というシステム内部で完結せず、例外的な手段を場当たり的に持ち込むものだから。

ふと思い出す。子どもの頃、ピアノの教則本に載ってたある短調の曲で、分散和音に「ドミラ」→「レファシ」という進行があって、私はこの「レファシ」を「レファラ」のミスプリントだと確信してそのように変えてさらって行って、先生に私の読み間違いだと指摘されて、天地がひっくり返るほど驚いたことがある。「レファシ」は短調のⅱで、これがもし長調なら何の問題も起きないのだけど、短調だとこれが「減3和音」になる。子どもの私にはこれが「調子外れ」に聴こえて、ⅳ の「レファラ」=短3和音が正解だと思ったのだった。

もうひとつ思い出す。和声で6の和音が「トニック」に分類されてることは、長調短調問わず私の腑に落ちないところだったのだけど、とくに短調については、6の和音が「ルートが短6度」なことと「長和音」であることのせいで、どうしてもトニックと思えず、むしろ「サブドミナントの代替」と見做してた。長調では「Ⅰ→ⅵ」という同じトニック内の進行はあり得ないが、短調の「Ⅵ」は「ⅰ」と性格が違いすぎて、じっさい「ⅰ→Ⅵ」という進行はアリだ。もっとも私がそういう感覚になったのは、ロックの、当時もっともヘビロテしていた曲、Pink Floyd 'Echoes' の「ヴォーカル・パートが休むサビ」のコード進行、「C♯m→A」のせいなのだが。

 

協和度=晴れやか度

《②「周波数の比」が、長3度は 4:5、短3度は 5:6》について。

2つ(以上)の音の、周波数の比が単純な整数比になってることを、協和という。その整数の値が小さければ小さいほど、より協和である。

純正律でいうと、長3度は 4:5、短3度は 5:6。前者の方がより濁りが少ない。より「気が晴れる」。

じゃあもっと濁りの少ない音程はもっと明るいのか、完全1度が最も明るいのか。

「明るくはあるけど楽しくはない」が正解だろうか。もともと、完全1度、完全8度、完全5度、完全4度は、ヒトの「感情」に働きかけるものではない、突き抜けすぎると「感情」という下世話なものではなくなる*1。それらは3度との比較対象ではない。長3度と短3度の「近いけど微妙に違う」、長3度との比較で短3度は暗いという「差異」こそがヒトの感情に対応できるのではないか。

 

半音の差、そして連続的変化

《③「インターヴァル」の半音の差》について。

以上、「5度圏/4度圏」といい、「周波数の比」といい、そうはいっても、実際の演奏の場面では、歌う喉のテンション、張る弦のテンション*2を調節して半音の差を作り、短3度を取ったり長3度を取ったりするのだ。より高い音高を得るにはよりパワーを込めねばならない。より低い音が出てしまう時は、より気持ちが落ちてる時だ。すなわち短調は悲しい。

そして、お気付きの通り、短3度と長3度との間を、連続的に変化させることが出来る。「長3度は明るい、短3度は暗い」のスイッチではなく、その間でより高い/低い音はより明るい/暗い、あるいは同じ「長3度」と見做せる音程の中でも、広目/狭目に取って明るさを連続的に変化させることが出来る。

 

慣習ということでいうと。

童謡「うれしいひなまつり」が短調であることについて、ウェブでしばしば目にする記述が、これを「暗い」「悲しい」として「謎」扱いするもの。

私はこの曲の音律を「雅(みやび)」と感じて来た。非日常の「晴れやかさ」と結びついてる。「暗さ」「悲しさ」のための短調ではないだろう。

ウェブ上の記述は、慣習を無反省に受け入れてしまって、短調であることを以て即座に機械的に「暗い」「悲しい」枠に振り分ける機構が脳内に出来上がってしまってる、と私には思える。

*1:音楽史的に、「音楽が感情表現を専らにするようになってゆく過程」と「3度音程を「縦に重ねる」ことが要請されるようになってゆく過程」とが一致するか、私には判らない。

*2:ヴェトナムの1弦琴ダン・バウをイメージしてます。指板上の指の位置移動や複数の弦のゲージの差によってではなく、1本の弦のテンションの変化によって音高を作ります。音高とは本来そのようにして、テンションを掛けること、パワーを込めることによって、作るものです。