ミー子

ぉぁああおうぅぅ

下書き放出(『枕草子』)

ボキャ貧とは何か。

ボキャブラリを豊かにするとは、何をどうすることなのか。

 

「ヤバい」のひとことで済ます、ということが批判される時に、これを「ヤバい」以外の何かに言い換えることが言葉を豊かにすることではない。その前段、「何がどうである、何がどうなった」から自分が感動したのか、の状況の記述を、明確にし、解像度を上げることが、言葉を豊かにする。

 

枕草子』について、「何でも『をかし』で済ます」と指摘し、これを「現代の『ヤバい』で済ますボキャ貧と同じ」と見做す言説を目にしたことがあるが、端的に頓珍漢である。

なぜなら、『枕草子』は、「をかし」と主観的感想で文を括るまでに、自分を感動させた状況の記述、「何がどうである、何がどうなった」について、言葉を尽くす。その解像度こそが『枕草子』のキモであり美であるからだ。

 

述語「ヤバい」をどんなにいろいろに言い換えてみても、話者の感動を聴き手が共有出来ないことに変わりはない。

状況の記述は、これを聴き手と共有できるし、もしかしたらこの提示によって聴き手に同じ――であることは望めないしそうである必要も無いのだけど、何某か価値のある――感動を齎すかも知れない。そのことを、言葉が「伝わる」と呼ぶのだ。

コミュニケイションの可能性は、一縷、そこにしか無い。

 

ぶっちゃけ私は『枕草子』のごく一部しか読んでないけど。私の『枕草子』との最初の出会いは、

星は、すばる。ひこぼし。ゆふづつ。よばひ星、すこしをかし。尾だになからましかば、まいて。

の段。藤井旭『全天 星雲星団ガイドブック』(誠文堂新光社)の「M45」の項で引用されてたのだと記憶するけど違うかも知れない。小学5年生の時。「みなさんよくご存じの『枕草子』にはこういう段がある」みたいな紹介のしかただったけど、私は逆に、学校で「春はあけぼの」を習った時、あ、あの「星はすばる」の枕草子だ、ってなった。

 

私は絶対に文章が「下手」だけど、論旨は明確なつもりだし、表現は簡潔で判りやすいつもりだ。

理路のために必要な言葉を使う。ということは同時に、無駄な箇所が無い、ということ。すべてのモデュール、すべてのパーツが、そこを抜かすと理路が取れなくなる、というふうに組まれてる。

それでも、なのか、だから、なのか、伝わらないなあ、という思いに苛まれることが偶にある。もしかしたら世間では文章というものが思いの外「雰囲気」で読まれてるのかも知れない。

書かれたとおりに読むとか、書かれてないことを読まないとかは、訓練しないと身に付かない技術なのかも知れない。