私はパーセルのオペラ『ディドーとエネアス』(『ダイドウとエニーアス』)を、さいしょアンドルー・パロット/タヴァナー・クワイア、タヴァナー・プレイヤーズの1981年録音盤で聴いた。この盤で、この曲と、指揮者パロットと、ディドーを歌ったエマ・カークビーとを知った。
この盤が、唯一この曲の正しい演奏様式なのだ、そしてディドーはカークビー一択だ、と、他の盤と比較したわけでもないのに決めつけて、愛聴した*1。
全曲をいくつかに分割して Emma Kirkby - Topic のチャンネルが上げたつべが、今なぜか限定公開になってて、聴けない。
この「ディドーの嘆き」のつべは、画像は、なぜこれを選んで使ったの?と思うけど、音質は目下これが最善:
透明で、こまやかで。
パロットが都合何回このオペラを録音したか、私は知らない。次に聴いたのは1994年録音のもの。さらに考証・研究を重ねた成果といっていいのか、作り込みが緻密になってる。くっきりとして押し出しもやや強まって多彩な印象になってるけど、それが外面の効果としてではなく「表現の深まり」として感じられる。1981年録音がラフな「デモ」だったみたいに聴こえ始めるくらい。多彩というのは例えば、打楽器を、ダンスのワンシーンだけだけど加えてたり。それも恣意ではなく考証に基づくものなのだろう、と思わせるような。ただ、ディドーは Emily Van Evera というソプラノで、カークビーじゃない。
「ディドーの嘆き」の、有名な、クロマティックに下行するグラウンド・ベースが始まるところから:
いやこの始まり方は卑怯でしょ! 嗚咽。
これがボロボロに泣けるのは、そのグラウンド・ベースの出だしが、撥弦楽器(テオルボ? アーチリュート?)で奏されるから。ここは、旧録音のほうの例みたいに、擦弦楽器(ガンバ?)でやるものだと思い込んでるところに、これ。より透明度が上がって、その透明度は、突き落とされた絶望の深さ。どこまでも疎外され、どこまでも孤独で、どうしようもなく力尽き、茫然自失する。
Evera の歌唱の冷たく硬質な透明は、カークビーの温かみと柔らかさの透明とは違う。このシーンの、自力で歌ってるというよりもオートマティックに歌わされてるみたいな境地は、あるいはこの新録でこそ達成されてる、と思う。
今回の記事を書くきっかけになったのは、ツイッターで、ある相互の方から、Iva Bittová がこの「ディドーの嘆き」を歌ってるのを教えて頂いたこと。
加えて、「これがこの方の真骨頂なのだろうな」として、これもお挙げになった。2021年、かなり最近。私は初見、良くて驚いた。
そこから連想なさって、Trio Mediaeval というグループの曲もいくつか教えてくださった。本当に美しい音楽、本当に透明な音楽をご存じの方。